トップへ
トップへ
戻る
戻る


うさぎ生き埋め事件の内側から


■うさぎ生き埋め事件の内側から…詳細は親にも知らされず
埼玉県 主婦 I

 最近、うさぎ生き埋め事件に関連した記事が朝日新聞に掲載されました。まだ、世間から忘れられていなかったのかと意外に思いながら、事件の広がりを他人事のように不思議な感覚をもって読みました。
 うさぎ小屋の補修工事や飼育指導が行政サイドで改善されるようです。大変喜ぶべきことなのですが、本当の問題はちょっと違うところにあるような気が致しました。


  うさぎ事件の詳細が親に正確に伝わらなかった

 事件の起きた小学校に子どもを通わせている親の一人です。
 あれから半年近くが経ち、井戸端会議に兎のことがのぼることもなくなりました。事件を起こした先生も傍目には以前と変わらず通われていらっしゃるようで、子どもに人気のあった先生だけに周辺の人達からいつまでも問題にされてなかったように思います。(何らかの処分があったのかどうなのか?等、学校からの説明はないままです。)

 新聞では「教師がうさぎを生き埋め」という刺激的な見出しで報道されましたが、学校からのお知らせ文書(「学校事故の報告とお詫び」というB5判のお便り)と全校集会に出た子どもの話によれば、埋められたのは生後間もないうさぎの赤ちゃんで、七面鳥につつかれて瀕死の状態だったそうです。飼育係の児童が担当の先生に知らせたが、時間もなく処置に困ってとっさに埋めてしまったらしいのです。全校集会では、当事者の先生が事件の説明をし、泣きながら謝罪したとのことでした。

 その後、しばらくは週刊誌に記事が載ったり、事件についての様々な噂が近所に流れましたが、公に学校へ説明を求める人もないようでした。また、学校側からの説明もありませんでした。
 そのせいか、ほとんどの親が事件の前後を含め、真相を正確にキャッチしないまま、何となく流されてきてしまっているようです。事件当時、PTA会長が決まらず、PTAが停止状態(前代未聞)になっていたのも、無関係ではなかったかもしれません。
 事件の真相を十分知らないのに、こうして語ることは非常に無責任であり、危険だと思いますが、〈事件の真相が分からない〉という現実があるわけで、その普通の大多数の親の一人として考えたいと思いました。

 噂の中には、「兎が増えすぎて引き取り手がなくて、あんな結果になった」「昨年教師になったばかりで、授業の遅れが気になると親からの苦情を気にしていた。それで授業時間に遅れてはと焦ってとっさにしたこと」「本当は生徒に命令して埋めさせた」「問題の通報者は動物愛護の人らしい」……等がありましたが、どれも確かめることはできませんでした。
 事件があって間もない頃、PTAの役員会で「これ以上騒ぎを広めないでほしい。質問があれば直接校長室へ聞きに来てほしい」と校長先生が話されました。しかし、私は行きませんでした。飼育係りがわが子と交流のない高学年であったこと、野次馬的な親と見られたくなかったし、何よりわが子に直接かかわる問題だという認識がなかったからだと思います。

 新聞報道されたことについて、親の反応は一人ひとり違っていたと思いますが、大別すると、二つのタイプがあったようです。
 一つは、教育者として許されないことをした教師がわが子の通う小学校にいるという驚きを持った人。もう一つは、「なぜ、この程度のことが新聞報道されたのか?」という疑問を持つ人でした。
 私の場合は、後者の反応に近く、二年以上のPTA役員の経験を通して学校に対して不信感を抱いていたためか、まず最初に学校の対応の悪さに腹を立てた親が、異議申し立ての手段として新聞社へ通報したのではないか? そんな考えが頭に浮かびました。

 うさぎ事件からまもなく、自分の認識の浅さに気付かされる事件がわが家で起きました。近所の幼児が金魚の水槽に餌を入れすぎて、金魚が死にかけたのです。気がついた時はすでに三匹が白い腹を出して水面に浮いていました。すぐにきれいな水に移し替えたところ、翌朝二匹が生き返り元気に泳いでいました。死んだ金魚をスコップで空き地に埋めた時、うさぎ事件の異様さに気がつきました。普通は生きているものを埋めたりはしない、どんなに傷ついていても息があるうちは埋めたりはしない、という当たり前のことを頭ではなく、初めて身体で理解できたのでした。

 動物好きの姉に話したところ、教師よりも子どものことを問題にすべきだと言われました。「世の中には、やっていいことと悪いことがある。先生の命令でも、ノーと拒否できなくてはいけないことがあるのに、従ってしまった子どもたちが悪い。高学年にもなってそれが出来ない子どもがいるのは恐ろしいことだと親は認識しなくてはいけないし、家庭の中できちんと教育していかなくては大変なことになる。」と諭されてしまいました。
 そう言えば、事件を起こした教師についてマスコミは問題視しましたが、子どもに対しての追求は無かったように思います。姉に言われて学校の中の権力構造、あるいは大人と子どもの関係について、今の教育全体も含めて考えるようになりました。
 そして、金魚の死によって、気付かされた自分の鈍くなった感受性。想像力と言ってもいいかもしれません。この事件に限らず、学校で起きていることに対し、大人は鈍感になっているのではないか? そんな気がしました。テストの点数のように目に見えない子どもの気持ち。私たち大人は、形で表せないものや目に見えないものに無関心過ぎるのではないでしょうか。

 最後になぜ私も含めた親たちが学校に事件の真相を直接聞きにいかないで済ましてしまったのかを考えてみました。(もう過ぎてしまったことを、どうして蒸し返すのか? と多くの母親から非難されそうで怖いのですが……)
 教育の無関心と言えば、それまでですが、飼育委員の親以外でこの事件を自分の子どもの教育問題として真剣に考えられた親がどれだけいたのでしょう。新聞報道されたことに振り回されただけで(誰が通報したのか、どんな先生なのか、など)、事件が起こった背景や兎の飼育教育の意味について考えたのか等、疑問が残りました。学校で先生方が子どもに謝罪したことで、親は納得し、安心したということになっているのでしょうか。
 もう終わったことだからそっとしておいてほしいという親御さんもいるようです。話すことで事件を起こした先生を責めることになるのではと心配されてのことなのでしょう。でも、教師の資質とは別にそういうことを起こさせてしまう何かが学校の中にあるような気がするのです。事件を起こした先生が本当に子どもたちに人気があり、私自身よく休み時間に子どもたちと遊ぶ姿を見ているだけに、気になりました。また事件を通して学ぶことは沢山あったと思います。

 今になって、日々の忙しさから事件の重大さを見過ごしてしまったような不安が生まれてきました。学校教育について立ち止まって考える事をしなくなった私たち親の意識下に一体何が在るのでしょうか。
 私の中にも横並び主義、事なかれ主義のようなものが浸透し、こだわらない、目立たない、果ては深く考えない、感じない……といった習性(?)が備わってきてしまったのかと嫌な気持ちになりました。子どものことを考えれば、学校と親がきちんと向き合い、それぞれが抱えている問題を包み隠さず見せ合って、解決への話し合いをした方が良いのではないかと考えました。

 十一月末に、飼育係りのいるある高学年のクラスで動物愛護協会の方をPTAの学級活動として講師に呼ぶ企画があります。事件をきっかけに学ぼうとする人達がいたこと、子どもの教育に対して逃げない勇気を持っている人の存在に少し驚き、勇気づけられました。

 なお、半年経った今、改めて「うさぎ事件」で何を勉強したのかとわが子に聞いてみました。すると、「自分で自分の失敗を言うのは良くて、学校の先生とか、自分より偉い人が失敗した時は、隠すのがいいことなんだよ」という言葉が返ってきて、考え込んでしまいました。



トップへ
トップへ
戻る
戻る