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『長欠児』が問いかけるもの


1997/09
■親の愛とは何か・教育とは何か……「脳外傷不登校6年間の子と母の闘い」 

 岡田まき子著『長欠児』(近代文芸社・1700円)が30年ぶりに再販された。「脳外傷不登校6年間の子と母の闘い」と副題にある。

 かつてこれほどまでに、子どもの育ちへの心遣い、学校や教師とのわたりあいを、具体的に、その心情のひだに至るまでも克明に記した書物があったであろうか。これは、突然脳外傷児を持つことになった母親が、悲しみや絶望の底に沈む込むことなく、驚嘆すべき強靱な不断の愛情の傾注を通して最善の成果を勝ち取った報告の書である。と同時に、子育てや教育が深い混迷の中にある今の時代にこそ、闇を貫く一条の光のように、母の心構えの何たるかを我々に提示してくれる書物でもある。

 著者岡田まき子さん(夫君は桶川市初の公選市長でシ農民市長サと称された仲太郎氏)の5人きょうだいの末子智次(書中では仮名)さんは、小学校3年生の時、学校の校庭に置いてあったリヤカーに乗った時、友だちが引っ張ったために転落して頭を強打し外傷性てんかんとなった。以来、嘔吐、頭痛、倦怠感、記憶障害、退行現象などの後遺症に悩まされることになる。

 疲労は簡単にてんかんを誘発する。母親のまき子さんは細心の注意と不断の愛情をもって、智次さんの心身の疲労を起こさせないように接していく。6年間の長きにわたる昼夜をおかずの闘いである。周囲の無理解から、学校へ行けないことを怠けであるかのような言われ方もした。たとえ「百万言」費やして説明したとして理解してもらえなかった。
 学校ではリヤカーから落ちた時、3人の教師が見ていた。にもかかわらず、事故のこと、後頭部を打撲して記憶を一瞬でも失ったという重大なことは、家族へは知らされていなかった。そのため、病院を受診したのは、数日後、家でテレビを見ていて突然の激しい痙攣の発作に見舞われてからのことであった。一刻を争う脳外傷の治療は遅れ、取り返しのつかない事態を招いた。にもかかわらず、学校へ行ったり行かなかったりする智次くんに対して、学校は同情的でも受容的でもなかった。智次さんはもう一人の自分を設定していて、「透明な方のボクは毎日学校へ行っているよ」と言い続けたほど、学校を片時も忘れることができなかったのに。ただ一人理解ある新任の担任教師(かかわり過ぎとして学校内で批判の対象になっていたらしい)に電話をかける智次さんに、「用がなかったら電話するな」と教頭は言い放った。そんな教頭も、学校事故としての対処をしようとしなかった校長も、学校の利益のために町会議員であったまき子さんの夫君のところへ来る時は慇懃であった。しかし、智次くんのことには一切触れようとはしなかった。

 だからこそなお、身を捨ててでも、いとおしい子どものために可能な限りの心を砕く母親まき子さんの神経は、いつも研ぎ澄まされ、熟睡することはなかったようである。かつては戦後間もなくから市民運動、婦人運動に邁進していた才媛の、農家の一主婦として家庭に入ってからの、全身全霊をあげての我が子への取り組みであった。ちなみに、まき子さんの育て上げられた5人のお子さんは、まき子さんの実の子どもたちではない。貧しい経済状態の中、自らが母として引き受けた子どもたちであった。しかし、自分の腹を痛めた子にさえ出来ないことを彼女は貫徹された。そして、その努力は遂に報いられたのである。智次さんが中学3年になった時、医師は言う「非常に素晴らしい例なのですが、再発作を食い止め続け得た、勝利とでもいいますか。長かったですね。」と。その時の心境を彼女はこう記す、「私は、勝ったと思った。」と。

 この書からほとばしる母としての愛情、慈しみ、子どものために一身を尽くす強靱なまでの精神力と行動力。もし世の母親たちがそれらから真摯に学び取るならば、子どもへの虐待、体罰、暴行はもちろん、社会を震撼させる子どもたちの問題行動も激減するのではないか、と考えるのは甘いであろうか。

 取材の日、記者は、あらかじめ教えていただいた場所に車で行った。駐車場の片隅には、たくさんのホオヅキが色づいていた。赤い屋根の家には、岡田仲太郎さんの名札がかかっていた。玄関を入ると、著者のまき子さんは、80歳を越えた高齢のご婦人となっておられた。久々の病院受診の日で、着物姿のまま待っておられた。書中の智次さんは今、まき子さんの書かれた本を読んで感動して来られた女性と結婚し、3人の父親となっておられるという。

 智次さんの奥さんにお茶をいただき、お二人のお話を伺っている時だった。玄関に誰かが来たらしい。「あーい。○○ちゃん、今日はとっても素敵じゃないの、その洋服。いいわよ」とまき子さんは声をかけられた。専門学校に通っている智次さんの長女であった。私にも気さくに挨拶して下さった。智次さんが不遇であった少年期、卑屈にならず乗り切って来られたのは、まき子さんという人物があったからに他ならない。それがどう受け継がれていくのか、図らずもその一端を見させていただいたような感じがした。  (Y)



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