トップへ
トップへ
戻る
戻る


夜間中学と私 転身2


1995/12
夜間中学と私 転身2 
埼玉県立川口養護学校 藤掛 紳一

 今回は、「転身そのA」として、教員としての私の四十代以降の二つの課題、「障害児教育」と「夜間中学とそのための市民運動」のうち、後者についてもう少し詳しく述べたいと思います。(「転身@」は『ニコラ』十月号をご覧下さい)

 「なぜ今、夜間中学(の運動)なのか」と、かつての同僚にも聞かれましたが、昼間の中学校の世界の根本的な部分への「疑問」(批判)を含むものでもあるので、なかなか理解してもらえることではありません。
 昼間の中学校教員であった私が、夜間中学校の世界の、自分にとっての「本当の意味」を心から感じられるようになるには、実に長い年月とさまざまな経験が必要だったのです。
   *   *   *
 私は、昨年(一九九四年九月)より、「川口自主夜間中学」と「埼玉に夜間中学を作る会」に参加しました。活動に参加してからまだ一年ですが、実は、私が初めて夜間中学の世界を知ったのは、十七年前のことです。

 山田洋次監督が東京の荒川九中に取材に訪れて、『学校』という題で映画を作りたいと構想を練り始めたころ、大学四年だった私は、小林文人教授の紹介で、同じ大学の出身で夜間中学教育一筋の見城慶和先生(映画の中で西田敏行が演じた先生のモデルの一人)に会いに、その荒川九中を訪ねたのです。

 教員採用試験を受験した年に、見城先生に出会い、荒川九中を知ったことは、今にして思えば、私の教員としての生き方に、決定的な影響を受けたできごとであったといえます。見城先生の人柄、教育にかける情熱とその教育観は、学校を訪ねたり、先生の自宅でお話を伺ったりする中で、私の心の深部へ流れ込み、しみ込んでいくように感じました。荒川九中での授業を見学したり、食堂で皆さんと給食を食べたりしたことは、鮮烈な印象と感動(当時は、まだその意味もよくわからぬままでしたが)となって残りました。その後、その記憶が遠いものに感じられる長い時期があったりしましたが、大切な「心の財産」として、私の心の中に残り続けました。

 教員試験を受ける私に、見城先生は、夜間中学の仕事の喜び、やりがいを語り、「藤掛さんもやらないか」と誘ってくださったことを思いだします。幸い、埼玉と東京の二つに合格して、その選択は可能であったものの、「夜間」の世界は、自分との直接の関わりは感じられない「別の世界」であり、自分の仕事とは全く考えられませんでした。やはり、教育の仕事としては、「昼間」の世界が主流であり、「夜間」は少数の人々の世界のことで、特別な事情のない私は、「ふつう」の中学校に勤めたいと思ったのです。そして、「昼間」の中学校を選択して、埼玉の中学の社会科の教員になりました。

 その後十六年間(岩槻と浦和で)中学校教員として仕事をして、三年での担任も五回経験しました。
 特に、二十代は、男子バレー部顧問としても「中学校教員」の世界に夢中になった期間でした。「一人前」の教員になるために、私の持てる限りの時間と力と情熱を注いだ二十代は、今では自分でも信じられないような「仕事づけ」の日々でした。(体力の限界を越えていたので、二十八歳頃には、体がガタガタになりました。)
 授業、学級経営、部活動、生徒指導、進路指導、その他諸々の仕事を、まずは「一人前」に、こなさなければ、責任を果たさなければとの思いばかりでなく、何年か過ぎるうちに、それぞれの「おもしろさ」や「やりがい」にも夢中になって、現実的な「中学校教員」の仕事にのめり込んでいきました。そして、その過程で見城先生や荒川九中に感じた世界とは違う方向へと進んで行ったように思います。

 部活に「はまった」私は、周囲の先輩や同僚をまねて、「情熱」と「信念」を持って生徒を平手打ちにする顧問に、あっという間に変身することができました。(私自身は、教師になぐられたという経験は皆無なのに。)毎日の早朝からの「朝練」や休日をほとんどつぶしての練習試合などは、肉体的にも精神的にもかなりきついものでしたが、市で優勝し、さらに地区で勝ち抜いて「県大会」に出場した時の感動と快感は、忘れられない思い出です。
 進路指導でも、中学教育の「陰」の部分を知ったときは驚きましたが、一時はビジネスマンになったかのような気分で、高校側との「かけひき」のおもしろさに興奮し、「セールス」に意気揚々と出かけ「戦果」を報告したり、「戦況」報告や記録を作成して、仕事の充実感にひたったものです。生徒や保護者にV感謝Uされることに喜びを感じ、「一人前」になった自分の「力」を確認していました。
 生徒指導の面でも、スパルタ型教育の中で新任時代を過ごし、先輩方の「力」ほとばしる実践と情熱に圧倒され、どこかに疑問を持ちながらも、自分の弱さを恥じ、悩みながら先輩に近づこうとしたことがありました。しかし、そういう先輩の真似をすることはできないという自分もあり、部活以外の場面では、私なりの「力」の表現方法を確立しようと模索しました。(その後そのスパルタ型は破綻し、私の悩みはやわらぎました。しかし、方法はソフトになったものの、生徒指導の基本理念は今も変わっていないと思います。)

**********************************************************

 月日がたち、結婚し、三十歳で父親になり子育てを中心にした自分の家庭生活を営みながら、三十代半ばを迎えました。教員としても、地域を変わり、さまざまな教育・教員世界の状況を見たことで、やっと私自身の教育観、人間観を見つめ、「本当の自分」に目が向くようになっていきました。目の前の「仕事」に追われるばかりの時期は過ぎ、自分がやっていることの「意味」を考えるようになったのです。

 自分なりに「誠実」に、「良い教員」であろうと精一杯努力したつもりでした。授業や担任した生徒(卒業生)との交流を通じての「心の財産」(感動・感謝)もたくさん得られました。それが、かたちとなってとどめられた感想文や手紙は私の宝です。
 しかし、一方では毎日の仕事をする中で、「何か変だ」、「どこかおかしい」という意識(違和感)が、どうしても湧いて来るようになりました。「今までやってきたことは、なんだったんだろうか」「こんなことをしていていいのだろうか」、以前から心のどこかでいつもくすぶっていた疑問がどんどん膨らんでいくのです。
 過去の自分がやってきたことをすべて捉え直し、今後の生き方を真剣に考える段階に入ったことを強く感じるようになったのです。そして、さまざまな研究会に参加したりする他、雑誌や文献もそういう気持ちで読み込むようになりました。

 そのころは、生徒が「素直」で、「落ち着いた」「平和な」学校にいたものの、年を重ねるごとに、考えれば考えるほど現代日本の中学校教育を構成する要素と思想の中のさまざまなことが、私にとっては、耐えがたい精神的苦痛と空虚感を生み出す矛盾と混沌としか感じられないようになっていきました。
 加えて、そのような思いを基に今の社会や学校教育について率直に語り合い模索する「仲間」を心から求めても、なかなか得られないという孤独感が次第に強くなってきていました。私が思う「連帯」や「変革」は、ありえないだろうという絶望的な感覚さえ湧いてきてしまうようになりました。

 私の、この様な「悩み」は、考えすぎ、こだわりすぎなのだろうか?
 私の、性格・個性が問題なのだろうか?
 私が、単に、大人になれないということなのだろうか?(私に好意を示してくれたある校長からは、「もっと清濁合わせ呑めるようにならなくちゃ、管理職になれないぞ!」と助言をいただいた。)
 実際、そうなのかもしれない。自信たっぷりに、仕事をしている人の方がほとんどだ。教育は現実問題なんだ。教育論なんて無力。考えすぎるとかえってだめになる。教育書を読むなんて、「もの好き」でしかないんだ。

 この様に思い、自分を変えて、私が抱え始めた苦痛や空虚感を「取るに足りない小さなこと」として、意識しなくなるぐらい「大きくなろう」「強くなろう」、そして、学校経営にかかわる「大きな仕事」を目標にすることも大切なことだと考え、努力したりもしました。

 しかし、内面でそのような葛藤を続けながら、さまざまな文献を読んだり、人に会ったりということを重ねていって、私が行き着いたのは、結局、単純なことですが、「自分を偽るのは止めよう」ということでした。
 自分の、この性格、性向をを否定したり抑制して、さまざまな疑問や苦痛を打ち消して、今の仕事を続けたり、その「上」の仕事を目標とするのではなく、こういう自分にあった教員としての「道」(生き方)を見つけようという決断でした。

 率直に言えば、妻の理解と支持がなければできない決断でもありました。ある意味では、それまでに昼間の中学校で私なりに築いてきたものや、お世話になった方々との「人脈」をすべて捨てることになり、一般的に、教員の妻として望む「次のステップ」とは明らかに違う方向を目指すわけですから。
 しかし、その決断を一番喜んでくれたのは、私の内面に起きていることを根気よく聞いてくれる、妻でした。考えに考え、妻と話し合って出した結論は、次の二つです。
@教員としての、四十代以降の後半の課題を障害児教育に定め、まず養護学校転任する。そして、家族(妻と二人の子供)も共に障害児(障害者)と交流し学んでゆく。
A埼玉に夜間中学を作る会の市民運動と川口自主夜間中学のボランティアに参加して、さまざまな人々との出会いを求め学びながら、「教育」「学校」について考え続けて行く。
 どちらも、十七年前の私には、「別の世界」としか捉えられなかった分野です。しかし、さまざまな経験を経て、思考を重ねてきた結果行き着いたのが、これからの「日本の学校」の中で、この二つの分野での仕事こそ、私の性格や思いに合った仕事だという確信です。そして、その二つのことを実行した今、それは、さらに現実の実感となりました。

 映画『学校』は、転任への決意が固まりつつあった時期に完成し、公開されました。構想から完成までに実に十六年の歳月が流れていました。そして、その十六年は、私の中学校教員としての十六年に重なっていました。
 映画の中に出てくる荒川九中の校舎、教室、食堂を見て、十六年前の夜間中学との最初の出会いがよみがえり、さらにその後の教員としての喜びや悲しみ、生きがいと悩みが頭に浮かんでは消え、そして、私が長い間心の底に沈めていた意識と決意が結び付き、不思議な感動を味わいました。この映画は私の人生において、特別な意味を持つ映画となりました。

 見城先生には、はじめ「そういう悩みを持っている者こそ中学校に留まるべきだ」と、転任を反対されました。しかし、転任後、近況報告をして、「悔いはありません。共感し、共に勉強し、語り合えるたくさんの仲間に出会えました」と伝えると、目をうるませて、「よかったね」と喜んでくださいました。そして、再び、「(埼玉に夜間中学ができたら)こんどは、藤掛さんがやるんだよ!」 という言葉もいただきました。
 出会ってから十七年後のそのことばは、「同じ世界」にいる、尊敬する「大先輩」のあたたかい励ましのことばとして、私の心に深くしみ込んだのでした。

 現在、私は、月一回の「埼玉に夜間中学を作る会」の事務局会議を基本にして、その他の活動(署名、集会、作業など)にもできるだけ参加して、週に一回は川口自主夜間中学に顔を出すようにしています。
 そこで、「昼間の中学校」という狭い世界・「枠」の中にいたのでは、何年いても学べなかったことを、いま学んでいます。

 もちろん、「昼間の中学校」と「夜間中学校」を単純に比較してどちらが良いかというようなことを考えることはできません。条件が全く違うのですから。「夜間中学校が本当の学校だ」などと言うような考えでいるわけではありません。
 ただ、これからの日本の学校のあり方を、豊かで温かいものにしていく手がかりが「公立」・「自主」夜間中学校の世界にあるのではないかと感じているのです。そのことを、日本(埼玉)の教育行政に携わる方々が理解し、「変革」を指向し実行していかなければ、日本の学校は精神的に豊かさを育んでいく場所にはなっていかないと思うのです。それどころか、今までと同じように、社会の中で、序列や差別を再生産し、人々のストレスを拡大していく場所であり続けるだけなのではないでしょうか。そして、その先には、利益や経済効率ばかりを人の評価の尺度とし続ける、さらに殺伐とした社会しか見えてきません。

 「そういう社会は、いやだ」という基本的な意識を持つこと、そして、自分は、これからどうしていくかということを考え行動することに、私は、今やっと正面から向き合えたのかもしれません。




トップへ
トップへ
戻る
戻る