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対人関係の煩わしさに悩んでいる人へ


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対人関係の煩わしさに悩んでいる人へ 〜〜 自我の鎖を解き放ってみては? 〜〜

 「対人葛藤」という用語がある。誰かのために自分が本来やりたいこと、言いたいことなどの行動が阻害され、本来の自分らしく振る舞えないという感覚のことである。

 「あの人がいなければ、自分は明るく生き生きと思うように行動できるのに…」と感じながら、自ら行動規制をしてしまう、萎縮させられてしまうと感じる。でも、本当にそうなのだろうか。

 快活に話しかけてくれない。他の人には笑顔で話しかけているのに自分には目も合わせようとしない。チラッと他の人に自分の悪口めいたことを言う。それを聞いた人までが自分に対して冷たい態度で避けるような感じ……。だから、自分も、本来は明るくユーモアもあり、面白い人間なのに、静かにおとなしくしている……。そう思っている人がよくいる。でも、本当にそうなのだろうか。

 あの人が思いやりがなくて、人間関係が洗練されていなくて、無学で、粗野で、無教養で、意地悪で、ひねくれた性格なので、不快な感じを与える接し方しかできない……。そうかも知れない。しかし、違うかもしれない。この見極めが大切だ。

 前者なら、まともに相手にしない方がいい。そんなことにいちいち付き合っている必要はない。そんなことに煩わされない適度な距離をとって、絵顔で一声かけてやり過ごすようにすればいい。「キャンキャン吠える犬は散歩にも連れて行ってもらえずストレスがたまっているのだ」くらいに考えて、あまり近づき過ぎないことが肝要だ。

 しかし、後者なら、自分が相手に不快な思いをさせているのではないかと、やはり反省してみることも必要だ。とかく自分のことは自分で見えない。相手はそれを映してくれる鏡でもある。いたずらに反感を持たず、そう感謝して我が身を振り返ってみるのも必要だろう。

 だが難しいのは、その鏡が必ずしも止水明鏡ではなく、時には大きな歪みがあったり、ひびが入っていたりすることもあることだ。その意味で、やはりその鏡に振り回されないことも必要だ。

 「とかくこの世は住みにくい」とは漱石の『草枕』の一節だが、塵あくたにまみれたこの世を離れてひとり仙人のような生活をするわけにもいかない。やはり人が恋しい。巷間の煩わしさの中に住む他はない。ならば、それはそのまま受け止めて、その中でどうすれば快適に過ごせるかを考えた方がいい。

 排他的になってもいけない、独善に陥ってもいけない。自分を捨てて迎合してもいけない。まして、アイデンティティーの不安から、熱病のように怪しげなものに身を焦がして心眼を曇らせたまま奔走するようなあり方は害悪でさえある。
 結局、大した解決法はないということになる。それでも少しは解決につながるささやかな方法があるとすれば、それは「自分は、自分は…」とばかり考える性癖からちょっとばかり自由になってはどうかということである。

 普段、あまり意識することはないが、衣食住に関するどれ一つをとっても、ほとんど全てが他人の努力の恩恵によるものばかりだ。そのように自分は人の力によって生かされているのだ。それなのに、あたかも自分の意思や努力だけで生きていて、自分の意にそぐわない存在はいらないかのような感じになりやすい。もしかしたら、ここに他人に悩まされるという落とし穴があるのかもしれない。

 実のところ、人はただ生きているだけで他の人々に何らかの影響を与えている。そういうことも考えて、少しは「自分」の枠を離れて、他の人たちのことも考えてみたい。しかし、あえてボランティアだの社会への奉仕だのと大袈裟に考えなくてもいい。気持ちのいい挨拶一つでもいい、日常のささやかな事柄においても「我」を離れた無償の行為をやってみてはどうか。そうすれば、少しは世界も変わって見えるだろう。他人に気持ちを害されていた自分が少し変わったことも発見するのではないか。


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