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我が子の不登校は体罰が原因だった


1996/01
■謝罪せぬ教師に信頼の糸がプツンと切れた
春日部市 K 

 中一の次男は、現在不登校である。朝の犬の散歩時、パートへの往き来などで出会う中学生を見かけるたびに、「何で我が子がこの子たちのように元気に登校できないの?どうして?」と思ってしまう。昨日まで学校に行くことは当然なのだと思っていた私にとって、このような事態が降りかかって来ようとは。

 息子は、大きな期待を胸に、この春、県下有数のマンモス校に入学した。部活にもどうにか慣れて、五月の宿泊学習にも元気よく参加した。その数日後、あの体罰は起きたのだ。しかし、私がそれを知ったのは、ずっと後の九月の末のことだった。
 息子が、最初に学校を休み始めたのは、「部活のハンドボールでボールをたくさん投げたので腕が痛むので休みたい」という理由だった。次の日は「足が痛む」と欠席。翌日は登校。また次の日は「頭が痛い」と欠席。
 「どうしたの?皆がちゃんと行ってるのに、お前だけ行かないのは変ねえ。もっと気合いを入れて!」とハッパをかけると、「僕が嘘をついているとでも思ってるの。それでも親ってゆうの?」と悪たれ口をたたいた。こうして、行ったり行かなかったりしているうちに、段々と行かない日の方が多くなり、親は「明日は行ってくれるかな?」とはかない期待を抱きながら、これといった原因が不明のまま、日数は過ぎていった。

 その間、担任の男性教師は、形式的に家を訪ねてくれてはいた。私が息子の学習の遅れの心配を「家庭教師でも頼もうかなと考えているんですよ」と言うと、「あーそうですか」と、無反応。「親身になって教えてくれればいいのに」と心で思ったが、なかなか口に出せなかった。結局、担任は何の力も発揮してくれなかった。

 やがて夏休みに入り、学校に行かない心配をせずに済むだけ、ホッとした。そして、この夏休みは出来るだけ外に連れ出して、我が家ならではのより多くの体験を積ませたいと、近くの公民館で開かれている「アウシュビッツ展」のボランティアに誘って手伝いをしてもらった。本人も割合快く引き受けたことで、戦争への関心を持てるきっかけになれたかなーと少し嬉しかった。
 しかし、連れて行った九州の実家で不安定な心理状態をのぞかせた。ほんの少しの私の注意でポロポロ涙を流したり、無理難題で私を嘆かせたりということがあった。夏休みのプールも一度も行かなかった。後に、水泳の顧問は担任の先生であったことで得心したが。
 夏休みも終わり、始業式の翌日の一日だけ登校した。この頃になると、息子は担任の家庭訪問に、玄関に顔を出すことを嫌がるようになった。

 九月二十九日、運動会の前日に担任の訪問を受けた。内容は、「運動会に少しでも出場したらどうか」ということと、「校長が三十日以上の長期欠席の生徒の親を対象に面接を望んでいるので、都合のつく日を知らせて下さい」ということを伝達に来たのだ。
 「お母さん、○○君の不登校の原因分かりましたか?」「いえ、それが全く不明なんですよ」そんなやりとりを、息子は茶の間でじっと聞いていたのだ。
 担任との話を終え、息子の所に戻ると、彼の様子が普通ではなかった。怒りと憎しみと辛さが充満しているかの如く、小刻みに肩を震わせて、その目つきは親でも恐いくらいであった。
 「あいつが悪いんだ。あいつが原因なんだ。なのに登校しない理由を、お母さんにとぼけて聞いたりしやがって。もう僕が登校しない理由をお母さんに話しちゃおうか。あーやっぱり言えないよ」「エッ?お母さんに訳を話してよ。ネッ、お願いだから」
 誰にも内緒ということで彼が私に話してくれたことは、何と担任の体罰だった。しかも、息子には何ら非がないことであった。

 その内容は、今、ここに書くのもおぞましい。会議室という密室で行われた、暴力団も驚くほどの、血を見る、恐く信じられないような内容のものだった。
 それほどまでの暴力を受けていながら、子供というものは親にも打ち明けようとはしない。その重圧を、今までの長い期間、心の中にしまい込んできたのだ。どれほどのストレスや心の痛みが傷となってきたことだろう。
 担任の先生も、世の体罰教師のご多分にもれず、多才で教育熱心で、結構生徒間の評判も良かったようだ。熱心な教師という評判をとる先生ほど体罰教師に陥りやすいという関係がここにもある。しかし、我が子が体罰を受けて学校にも行けなくなった親の立場からすれば、どんなに教え方がうまく熱心であろうと、こんな体罰をする教師よりは、たいした指導力がなくても、いまわしい体罰を絶対にしない教師の方がずっとましである。
 我が子の場合、時間はかかったが不登校の原因が分かったことは不幸中の幸いであった。しかし、なぜもっと早く言ってくれなかったかを考えると、親子の信頼関係にいまひとつ十分でないところがあったのではと、謙虚に反省しなければならない。

 息子から当時の心理状態を聞いていくうちに、彼なりに周囲に話さなかったことへの理由があったんだと、分かってきた。以下の私と息子のやりとりは、どうして彼が不登校になっていったかの答えと言えるだろう。
Q:体罰を受けた翌日から十日間くらいはちゃんと学校に行っていたのはどうして?
A:体罰を受けた時、先生が「お前のような奴は学校に来るな!」と言ったので、その言葉への反発もあった。それと、入学後間がなくて、学校に行きたいと思うエネルギーがまだ体にあふれていて、十日くらいは大丈夫だった。足や身体は痛かったけど、気が張っていてパワーがまだ残っていた。
Q:その後、担任に対して見る目が変わった?
A:ひどいことをした先生だけど、何かそのことを反省している態度、僕に悪かったねという態度を早く見せて欲しいと望んでいた。
Q:先生はあなたの望みに応える態度を見せてくれた?傷ついた身体と心へのいたわりとか…?
A:全然なかった。それがあったら、僕は登校拒否になんかならずに、ずーっと学校に行き続けていたよ。僕はあんなひどい暴力を受けてすごいショックにもめげず、休まないでがんばろうと努力していたのに、先生は何も反省している風には見えなかったし、それどころか、僕を無視している態度をとっていた。それを見て、僕はだんだん学校に行く支えや気力がなくなっていき、行くのが馬鹿らしくなっていった。あーあ、まだ僕が学校に行っているうちに、僕に謝ってくれて反省していればなー。こんな風にずーっと行かない子にならずに済んだのに…。

 私は、息子の言葉から次のようなことを感じ取った。
 「僕は先生の人間性を見たかった。暴力さえなければ、僕はあの先生が好きだった。だから、先生の謝罪の一言が欲しかった。それをもらえたら、先生を許してあげたかった。しかし、得たものは失望だけだった。僕の心の中で、先生への信頼のきずながプツンと切れてしまった。信頼出来ない先生がいるクラスに行くなんて、もう何の意味もなかった」
 彼が登校を拒否するようになった理由が、これほどまでにハッキリしていることが残念で悲しい。

 九月の末に告白してくれた後は、彼の気持ちも少し軽くなったように感じたが、学校に行きたくても行けない苦しみや担任への恨みなどをいろいろ親にぶっつける日々が続いた。親の私としては、その希望を何とかして受け止めてやりたいと、様々な機関に相談して、解決の糸口を必死で探った。
 その間、やや不満もあったが、学校側の態度は、加害者側という立場もあるだろうが、総じて前向きではあった。しかし、ハッキリしたことは、学校は百パーセント子供の立場では考えてはくれないということであった。そして、極度に文書の形での謝罪を忌み嫌うということであった。それは、報道機関への通報を極度に恐れ、同時に学校のイメージ低下への極度の恐れと繋がっていくものである。
 その後、担任の病気休暇、副担任の担任代理、新副担任の起用など、クラス内の人事変化もあった。

 息子は、一進一退を繰り返しつつ、それでもいくらかずつ心も安定に向かい、傷ついた心も癒されてきているのが分かる。学校に行かなくても、子供の暗く苦しい表情がだいぶやわらいできたのが今は嬉しい。一時は「死にたいよ」とまで思い詰めたこともあったほど、やりきれない苦しさを十三才にして味わってしまった我が子ではあるが、これからは一刻も早く前を向いて、自分の人生を切り開く力を身につけて欲しいと思う。唯一、拾いものとも言える、他人の痛みが分かる人間になれたことを人生の宝として。
(春日部市 母親)

(編集者注)
 教育の問題が起きると、何かにつけて学校や先生を批判すれば事足りるとする風潮は慎まなければならない。教師もたま、システムの歯車として苦しんでいる場合も多い。
 しかし、そのことと、事の真相を明らかにすることとを混同してはならないだろう。正すべきところは正すことが、教育の事件にも是非必要なことだ。体罰が起きると「熱心な教師」とかばうことが多いが、熱心さをはき違えてはいないか。
 ここで少年にとって、体罰以上に先生を「信頼」することがどれほどの重い意味を持つものであったか、是非考えてほしい。保身のため、その信頼を踏みにじった時、教師は少年の「人を信頼する心」そのものを引き裂いたのだ。
 手記では明言を避けているが、その体罰の真相を知る時、これは体罰ではなく、異常で残虐な暴力事件として処すべきものとさえ思える。そこに教師の姿はない。今後、学校側がどのように処し、報告するのか注目したい。真相を隠さないでほしいものだ。


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