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ソフトな子ども虐待


83 ソフトな子ども虐待

ある引きこもりの講演でその分野で名の知れた精神科医のS氏は、「虐待された子どもは引きこもりにはならない」という趣旨のことを語っていました。それについて、会場からは何の意見も出ませんでしたが、私は、この説明にある種の違和感を感じていました。それは、実態とはちょっと違うのではないかと思ったからです。

引きこもりの若者たちは、どの子も親からあからさまな身体的精神的虐待を受けたことのない子どもたちであるのは確かかもしれません。むしろ、親に大事にされ、あまり生活上の貧しさや辛さも味わうことなく、性格的にも良い子として育ってきた子どもたちであるように見えます。

でも、引きこもりの若者に、病気ではないとはいえ、スキゾフレニア(分裂症)と似たような症状を起こしたり、多重人格症のように、実際にスキゾフレニアに移行するようなケースがしばしば見られるのはなぜでしょうか。そこには、本人にもはっきり気付かないように徐々に進行していったソフトな精神的虐待の要素はなかったと言えるのでしょうかのか。もちろん、これには「子どもの虐待」をどのようなものと考えるかによって違うと思いますが。

非行少年の多くは、今も昔も家庭環境に恵まれなかったり、学校で落ちこぼれて排除されてしまったような少年たちが大半です。しかし、今、引きこもりの少年の特異な問題行動として注目を集めている事例はそのような少年たちの起こす事件ではありません。それまでにどちらかと言えば「よい子」と見られ、勉強やスポーツにも熱心に打ち込み、親や周囲の期待を一身に背負ってきたような子どもたちなのです。

ところが、これらの若者たちに共通しているものがあるように思います。それは「ギャングエイジ」を体験することなく育ってきた子どもたちではないかということです。言い換えれば、「子ども期」を十分に生きられなかった子どもたちなのではないかということです。自分の人生を自分の好きなように生きられなかった子どもたちのようです。周りの過度の期待に応えようと自分を殺してきた子どもたちのように思います。

そして、そこに私は、「愛情」という名の下に、親が子どもの精神的自由を奪い、親の望みに子どもの生き方を従わせ、生き方のレールを敷き、子どもの自立を奪ってきた姿を見るように思います。そして、子どもが不登校となり引きこもりとなっても、やはり、いえ、そうなったらなおのこと、「子どもを守る」との美名のもとに、親が子どもを抱え込んで一層その傾向を強めてしまってさえいます。これは親の愛の名の下になされる一種の精神的虐待なのではないかと思わざるを得ません。ただこの場合、親も本人もそれが愛だと錯覚していますので、大変やっかいなことだとは思います。

子どもがなぜ社会的不適応を起こすようになったのか、子どもが自立して考え行動できるようになるための手足を奪ってきたのは自分たちではないかという反省が親の側に生まれるかどうかが大きな鍵だと思います。その自覚がなく親がいつまでも子どもを抱え込もうとする時、ますます深みに陥っていくのではないかと思います。

それをどう気付かせるか、精神科医の方々による考察も含めて、精神的虐待の側面からの対応が必要ではないかと思います。


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