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ゆがんだ教育改革


1995/12
ゆがんだ教育改革……私学から教育を考える4
 淑徳与野高等学校 校長 川端 幹雄

 埼玉県では平成四年十月、突如として、偏差値追放令がありました。それも、はじめは、中学校がもっている偏差値の個人情報を私立高校に見せるな、云うな、提示するな、という命令ではじまり、それが翌五年に入ると、文部省の命令で、中学校で偏差値を出すこと自体が禁止されました。

 教育改革という名の偏差値禁止令が出る前、約二十年間程は、高校受験に関し、受験のための学習指導、つまり受験指導は学習塾が担当し、その結果である学力水準はテスト業者が偏差値で出し、この学力ならどの高校へ、どういう方法で入った方がよいという進路指導は中学の担任の先生が担当するという住み分けが出来ていました。塾は学費を取り、テスト業者は生徒からテスト料を徴収して、テストをして、その結果を加工した偏差値及び統計資料を中学校に渡し、中学校の先生方は無料で一人ひとりの進路について実に親切な進路指導をして居りました。

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 教育改革という名の偏差値追放令によってテスト業者と、中学校とのパイプがぷっつり切れてしまいました。その後の混迷は中学校の進路指導の道具がなくなってしまったという一点に集約されて今日に至っております。まず偏差値そのものでありますが、悪の権化のように云われ続け、大キャンペーンが張られても、偏差値自体は会場テストと云われる方法で現在は高校受験生の三分の二程の生徒を実質的にカバーしております。
文部省は偏差値は悪いものだ、毒だと云う。国民はわざわざ金を払ってその毒を買っています。中学校で全員強制で買っていた時は一回千五百円、今は三千円程度に値上がりしましたが、高校受験生の三分の二は文部省が毒だと宣伝するものを買っています。それもレベルの高い難関の高校受験生はほとんど全員が購入しています。

 どうしてこういうことになったか、実は、偏差値そのものは毒でも薬でもなかったのであります。使い方や出し方に問題があったのであります。
 本来、学校という所は教科の学習を主とする所であります。ですから文部省は学習指導要領というものを出して、すべての学校に、どの教科をどれだけの時間どのように教えなさいと厳しく命じています。しかるに、その教えた結果、どれだけ身についたかを問うことはしなかったのです。仕事を命じておいてその成果には無関心であったのです。成果を問うのは上位学校の入学試験ということになっていたのであります。一つの学校の中では学習の成果を見るテストも評価も行われていましたが、それでは学校をこえて行われる上位学校への入試には通用しないので、進路の見通しをたてるためにはどうしても、在学する学校以外の競争相手も視野にいれた学力水準を知らなければならない。そこに学校が出してくれない偏差値というものが必要であったのであります。その必要は教育改革の後も変化せず、結局、業者テストは行われているのであります。
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 教育改革の後、中学校現場はどうなったか。中学校から偏差値は完全に一掃されました。これは良いことであります。民間業者がビジネスでやっているテストを公器たる公立中学校の教室で公務員たる教員が監督して実施するなど本来間違っていたのですから、これはこれで良いのであります。しかし、進路指導の道具である偏差値がないので、学力水準別の振り分け指導は出来なくなってしまった。

一方高校受験は学力中心の試験では全く困ってしまうという状況になりましたので、この矛盾を救済する方法として登場したのが@公立高校の推薦入試枠の拡大、A進路指導とは入れる高校を探してやることではなく人生全体のキャリアプログラムの指導だという解釈、B観点別評価の重視、という三点セットでありました。

@の推薦入試の拡大は結局のところ、正規分布による学校別十段階相対評価を用いるので、精度の低い偏差値を用いての進路指導になってしまいました。学力水準を厳しく問う高校には精度の低い分だけ通用しにくいものであります。Aの人生指導の問題でありますが、論としては通る話しですが、明日の入試の対応を教えてくれない先生に人生そのものの相談をする生徒がいるかどうか疑問であります。高校など行ける学校を探すのではなく行きたい学校を探すのだと指導する。行きたい学校が受からなければどうするのですか、と問われれば、それは知らない。要するに人生とはそういうものだという話しでは通用しないと思います。Bの観点別評価の重視も、教育評論家の論議としては仲々興味深いのでありますが、生徒の学習に対する意欲、興味関心、そして、態度、表現力などを評価することが大切であって、数値化出来る学力水準のみを尺度にしてはならぬとの考え方であります。この考え方を実際の入試に活かす方法は、公立高校の入試で、名門校が、観点別評価の高い人を合格させてくれさえすれば活きて来ますが、超一流名門校で観点別評価を重視して合格させている話しを聞きません。

 知育偏重はいけない。だから偏差値はいけないと云っている文部省の役人に偏差値の低い人は一人もいないのと同じであります。
 知育であろうと、徳育であろうと偏重がよくないことは云うまでもないことですが、日本人としてのアイデンティティーも、固有の文化もかなぐり捨て、宗教までも放擲して顧みなかった日本の戦後教育が、教育自身の責任は問わず、子供や生徒ばかりに無理を云うのはもういいかげんにしたらと思います。

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 教育改革を経て塾はどうなったか、塾は、従来通りの受験指導は相変わらずであります。加えて、業者テストの面倒を見ることになり、そこで得られる情報をもとに従来中学の先生方の担当であった進路指導もやらなければならぬ立場になりました。塾は生徒数によって生活が左右される立場にあります。極めて不安定な経営を強いられている塾が多数であります。こうした塾に一人三役の仕事をさせる結果となった一連の教育改革と称する偏差値タタキは本当に生徒のためになったのでしょうか。いずれにしても、これが教育改革というもののてんまつであります。   合 掌 




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