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理由なき暴行を加えた少年の手記から


2000/05
学校教育の中で生きている実感を得られない少年達

自分が謹慎になって四日目が過ぎようとしています。甘えている自分をもっと苦しめて、今やるべきことに励もうと思っています。
 今まで自分が何であったのか、今思うとゾッとするものがあります。だから、今のうちに自分を苦しめて、苦しめて、たくましい自分になろうと思っています。早く気づいた今がとてもいい時期だと思います。この謹慎中に、自分は何を学び、どれだけ変われたのか、自分でよく考え理解していこうと思います。

 謹慎中でなければいつも家にいることのない自分だけど、家がこれほど落ち着けてゆとりが持てるものだとは知りませんでした。今は前の自分と違ってゆとりがあり、落ち着いていい気分です。

 昔の小学校の時、友達と川でカニを捕まえに行ったり、公園にトンボを取りに行ったり、放課後学校の校庭で夕暮れまではしゃぎ回った頃のように、ヤンチャであった時の自分を思い出します。あの頃のことが何かすごく懐かしく感じました。中学の時は三年間野球に頑張っていました。自分が何かに燃えることで自分にゆとりが生まれることを何度も感じてきました。高校に入っても何か燃えるものを見つけたいと思います。

 生活の中で自分は悪循環に陥っていたけれども、今の自分は少しずつだけれども、何かをつかみかけています。新しい自分になりかけているのかと思います。生まれて初めて自分はこんな気持ちになりました。十五年間生きてきた中で、今が変わらなくてはならない一番大切な時期だと骨身にしみて感じます。失礼なことだけど、今回自分が大きな迷惑をかけてしまったけれども、自分がつかんだものは大きいと思います。

 「親を泣かせることは最低のことだ」と生徒指導部長は言われました。自分はこの言葉をすごく大切に思います。そして、親を泣かせることは、自分にとってこんなに苦痛だということが分かりました。

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 これは、高校に入学早々、衝動的な暴力事件を起こして自宅謹慎になった生徒の日記の一部である。
 その生徒は、入学して間もなく、「ガンをつけた」とか「生意気だ」とか、その年齢の不良じみた生徒によくありがちな理由で相手の生徒を殴ったのではない。ほとんど理由らしい理由はない。ただ、「その生徒が気になった」ということだけで、「タイマンを張ろう」と言って、何のことが分からないで無防備の状態で座っていた相手にいきなり殴りかかり、髪を引っ張りながら幾度も殴打し、相手が床に倒れると更に足で蹴り上げ、止めに入るまで暴行を加え続けた。相手の生徒に何かの非があったわけではない。いわば「理由なき暴力」といったものであった。

 なぜこのような「いきなり型」の暴力が振るわれるのか。本人にもその理由が明確に説明できるわけではない。ただ、自分でも御しがたい感情に突き動かされ、前後の見境なく殴る蹴るの行動に出たものであった。彼もまた、最近社会をにぎわせている衝撃的な事件を起こしている少年と同じ年齢の少年である。そのような事件を起こす少年たちとどこかで関連があるのだろうか。

 この少年が告白した中で分かったことだが、やはりその一つは家族関係にその手掛かりがあるようだ。加害者宅に謝罪に母親と出向いた時、彼は相手方の親から厳しく叱責されるのをむしろ嬉しがっているような雰囲気さえあった。母親の証言によれば、彼は父親とほとんど一緒に遊んだり、行動したことがないまま成長してきたという。ある時たった一度だけ父親と釣りに出かけたことがあったが、その時だけこの少年の顔は明るくなったという。事件の後、彼が復帰してから父親は学校でこう発言したという。「先生、私ではどうにもなりませんから、厳しく叱ってやってください。息子を殴ってやってください」。この家庭では父親は完全に子育てから降りているのである。

 一方、母親はただひたすら、時には涙を浮かべて息子の非を謝罪した。しかし、何がどうだから謝罪するということが本当に理解して謝罪していたのかというとそうではないようだった。そこには、ただ加害者の息子を守りたい、弁護したいという思いだけが現れていたようだった。被害者宅で息子の行状について聞かれたとき、それが明らかに嘘だと分かるのに、そうまでして息子を弁解し、息子の行為を取り繕おうとした。しかし、そのことを一番知っているのは多分当の息子自身であろう。彼はそれをどういう思いで聞いていたのか。そういう両親の下で彼は育ってきたのだった。その過程には、彼が成長するときに必要な精神的バックボーンになるものは何もなかったのではないかと思える。

 この 暴力事件に対して、高校側は数日間の自宅謹慎という処分で臨んだ。その間、この暴行少年が書いた日記が冒頭に紹介した文章である。この少年にとっては、この処分は外部から加えられた初めての強圧であったかもしれない。そして、この手記で特徴的なのは、少年はこの処分を辛いこと、厳しいこととしてよりも、むしろそれを喜んで受け入れていて、その中で、かつてとらえどころのない苛立ちに突き動かされていた自分を振り返り、自分が自分として行動していた小学校時代の気分に立ち返り、気持ちが落ち着いたと述べていることである。

 これはどういうことなのか。彼は絶えず人との実感のある関わりを求めていたということではないのか。中学時代に野球に熱中することで気持ちに「ゆとり」が生まれていたという告白も、この文脈で捉えられないだろうか。彼は何か分からない苛立ちに突き動かされて暴力事件を起こし、批判され、叱責され、謹慎処分を受けることで、逆に満たされる喜びのようなものを実感として味わったとも言える。

 これに対して、高校側はどう対応したのか。担任の先生は、彼のあり方を厳しく問い質すことよりも、自宅で勉強が遅れないように毎日訪問して学習指導を行ったという。果たして、それは良かったのか。それは彼の精神の渇望が本当に求めているものだったのだろうか。むしろ、担任が自分の生き様をかけて少年に迫るようなあり方の方が良かったのではないか。

 かつてチーマーを張って集団暴行事件を起こした少年達にとことん付き合い本音をぶつけて話し合った教師が、その少年達から「オレ達に今までこんなに話をしてくれる人がいなかった」という話を聞かされたと言ったことがある。その荒れ狂った少年達も、その外見上の荒れの陰に、生身で語り接してくれる大人の存在を求めていたということであろう。それが満たされない苛立ちが時には、短絡的な暴力という形をとって現れるということではないのか。そのような意味でも、高校側のとった指導のあり方は、疑問の残るものであったと言えよう。

 その後、謹慎が解かれて学校に復帰した少年はどうなったか。当初の荒れは陰をひそめたが、逆に軟派的な少年に変わっていったという。謹慎期間は彼が自分をとことん見つめ直し、新しく生まれ変わるチャンスであったはずだが、学校側が取った余りにも短い謹慎期間は彼が本当に変わるチャンスを十分に活かせなかったとも言える。
 やがて彼は勉強にも身が入らなくなり、次第に休みがちになり、ついには退学という道を選ぶことになった。結局、学校は彼を救えなかったし、彼もまた学校で変わりうる方法を見つけることができなかったのだ。ただ長期の謹慎は進級に響くという二義的な配慮を優先させることとなってしまった。学校のどこに彼のとらえどころのない苛立ちに応えるものがあったか。学校のぬるま湯的な対応は、彼が心の中で求めていたものとは違ったのではないか。

 高校を中退した彼は、今は建築関係の仕事に就いて頑張っているという。そして、そこには生き生きした彼の姿があったという。もしかしたら、彼は学校においてではなく、そのような場において初めて生の実感のある手触りを得たのかもしれない。

 目的も方向性もなく、将来への展望もなく、今生きている生身の少年としての疑問や悩みにも一切触れることのない学校でのたんたんとした授業。それに自分が縛られていると思えば思うほど、苛立ちや焦りに苛まれる少年達は意外なほど多いのではないか。現代の学校教育がそのような少年たちの心の叫びにどれだけ応えられるものになっているのだろうか。昨今、「成績が良かった」「真面目だった」と学校の価値基準や評価にからめ取られ、従順と思われていた少年ほど衝撃的な事件を起こす背景の一つは、ここにあるのではないか。学校教育がどれほど彼らの渇望や焦燥にも似た激しい内面の希求に実感のある回答を与えてやることができているのだろうか。

 学校の教員たちは、彼らのそのとらえ所のない思いにどこまで対峙し受けとめてやれるのだろうか。その時、学校の教師である前にまず生身の人間をさらすことが求められるとも言える。果たしてそれができるのか。課題は重いと言える。




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