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Play-Study-Workの結びつき

「Play-Study-Work」の結びつき 2005/02/10

標準サイズの文字がここにはいります。
実践というよりはまだ理念のレベルであるが、「フリースクール・ぱいでぃあ」の活動では「Play-Study-Work」の結びつきを重視している。年齢や個々の能力、関わった期間の長短などによって一定ではないが、フリースクール・ぱいでぃあでは「あてがい扶持の教育を行う場ではなく、それぞれがその能力に応じて出来ることを率先してやる場」でありたいと思う。

近代学校教育制度が普及してから、子どもが勉強さえしていれば何も要求せず、何も頼まず、すべて親が代行してしまうということが一般化してしまったが、これは親にとっても子ども本人にとっても、とても不幸なことだったのではないか。明日、受験でも控えているというなら別だが、「○○ちゃん、ちょっとこれ手伝って…」と親が言った時に、「今、勉強しているから」という子どもの言葉は「面倒くさい、手伝いたくない」ということの逃げ口上である場合も多い。「そんな勉強なら狡猾な人間を作り出すだけで、いっそしない方がまし」という論も成り立つ。

見方を変えれば、日本の近代学校教育制度はペーパーの勉強はそこそこにこなせ、口は達者となったが、他のことは「何も出来ない子」の大量発生を生んだ側面がある。だが、作業や仕事から切り離された知識習得だけの勉強(これが学校教育の根幹をなしている)がそんなに大事なことだったのだろうか。事実、私自身の経験からして、勉強していることを口実に親の頼みを断ったことがあったということが今は苦い思い出として蘇る。その分だけ自分がより小ざかしくより小利口になったように思う。

昔の子どもたちは生活の必要に迫られていたということもあるが、日々の生活の現場にPlay-Study-Workの結びつきがあった。それが(古臭い言い方だが)知ー情ー意のバランスのとれた成長を促しもしたし、『論語』の中で孔子が言ったところの「学びて思わざればすなわち暗く、思いて学ばざればすなわちあやうし」(さらに古いか!)という、学ぶことと思うこと(他から学ぶことと自ら実践すること)との結びつきもまたあったのである。生活の中に学ぶことの裏づけがあったのだとも言えよう。勉強はあまり得意ではないが、人への思いやりにあふれている、人に役立とうとする配慮がある、面白い技能を持っている…そういうこともいわゆる「勉強が出来る」ということに勝るとも劣らない能力なのだと思う。

しかし、誤解して欲しくないが、「フリースクール・ぱいでぃあ」は学問の探求を否定しない。「学びからの逃走」という現今の多くの子どもや若者のあり方を是とはしない。むしろ逆に、より健全なる大いなる知の発展を願っている。知の力は人間力の大きな力となるからである。現在の学校教育や塾でのお定まりの教育のあり方に批判的であるのもそのためである。これは男子御三家・女子御三家中心の受験指導を行ってきた自分の若い時の教育を振り返っての反省の弁でもある。(ここだけの話だが、教育の指導は出来る子に教える方がよほど楽なのである。だから、出来る子の指導の実績は誇るに値しない)

いずれにせよ、何のために人は勉強するのか…一人ひとり今一度よく考えてほしいものである。

※参考Play-Study-Work 教育とは何か----個と公のつながり(1)」