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なかったことにすること


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■なかったことにすること  
埼玉県 主婦(小学生の母)

『ニコラ』第80号「ニコラの集い・ 教育を考える座談会」に、こんな話が載っていた。

 新聞に「傷つかない方法教えます」という本の広告が載っていた。要するに、相手がいきり立って言ってきても、それをまともに受けないで冷静に対応して、なかったことのように振る舞う。考えると怖いやり方ですね。ところが、若い世代の人に時々そういうやり方をされる。深入りしないで表面だけで処理する。そういう病理みたいのが結構蔓延している……という話である。

 私は、子どもの小学校で子どもの担任の先生に、「なかったことにする」というやり方をされた。子どもの学校でのことを「なかったこと」にしたいのだ。

 先生という職業に対する私の思い込みがあった。いわゆる先生というものは子どもを教育・指導する立場であるから、嘘やごまかしはないという前提で先生というものを見ていたから、最初そのことに気づかなかった。しかし、関わっていくうちに、子どもの立場で見るのではなく、先生という職業の上に立ち、自分の立場を守りたいのか、自分にとって都合の悪いことはなかったことにしたい。自分のクラスには問題のないことにしたい。嘘やごまかしを使ってまで、してなかったことにしたいのだ。

 子ども同士のトラブルを、先生の都合のいいように作り変えてしまう。子どもの問題を「遊んでいたのだと思いました」「はっきりとは覚えていません」「みられない。わからない」 h そんな言葉を使って、責任逃れ、いわゆる「なかったこと」にしたいのだ。

 「なかったこと」 h 先生にとってこんなに楽な方法はほかにない。先生自身にとっては最高のやり方だ。子どもが学校でケガをしようが、いじめにあおうが、「なかったこと」にしてしまえば、先生自身の身は守られる。そんな人は、なんのために先生という仕事をやっているのだろう。

 要するに、指導ができないのである。クラスに問題がないことにしたい。だから、指導する気がない。「なかったこと」にしたいから、指導力もつかないのである。けれど、本当に子どもが好きで、人間としての思いやりのある人なら、そんなことはできないと思う。「勉強になります」「参考になります」なんて保護者には立派なことを言っていて、まるで二重人格のように、いざ問題が起きると、「なかったこと」という方法を使って逃げるのである。

 そういう人間性の人が先生という職業につき、今でも平然と教壇に立っている。先生という職業がそういう人間性を育てるのか、もともとそういう人間性の人が先生をやってしまっているのか。

 問題を起こしたら、ほかの学校へ異動させるということではなく、そういう先生をもう一度教育し直してから現場へ戻すとか、「なかったこと」にすることがいかに人間として卑劣なことであるか、自分のやっていることがどういうことかわからず感覚が麻痺している人に、自覚を持たせる方法はないのだろうか。



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