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娘の不登校を通して


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■娘の不登校を通して
埼玉県 T・E


 『ニコラ』とのおつき合いは一人っ子の娘が小学校2年生の頃から始まった。きっかけは長野在住の友人が信濃新聞(信濃毎日?)のニコラの紹介記事を送ってくれた事だった。確か新聞には教育現場からの生の声を揚げる場として注目される雑誌とあったように記憶している。

 私の場合、小学校に入って間もなく娘が不登校気味になり、担任の教師や保護者と随分やりあったものだ。子どもの能力や性格によるのだろうが、学校のペースややり方についていけず親も子も戸惑ったことが多かった。

 その頃はまだ学校での知り合いが少なく、なかなか相談する相手もいなかった。教師や学校に何か相談しても個人的な問題と処理されて終わる現実があった。結局一個人では学校の様子も分らないし改善要求などもしにくいというのが徐々にわかり、PTAという団体で活動してみた。最初は親の意見がバラバラだったり(学校従属型の意見無しの親もいたり)して結構苦労した。

 あまりに自分と違う多くの意見に相対すると自分の感覚の方を疑ったりしたが、そんな時『ニコラ』の記事や編集の馬場さんに助けて頂いたように思う。 当時掲載されていた教師側から見た教育問題の記事や学校のやり方に疑問を抱く自分と似た保護者の声を読んでは励まされ、周囲から反発を受けても問題提起し続ける事ができたように思う。

 自分の子も含め小学校に通う子ども達の環境が少しでも良くなればと思い、様々な事をしたが、結局娘は小学校に馴染めず6年の夏休みに転校を希望し転校先の小学校できれいな不登校(完全な不登校)になった。

 子どもがきれいな不登校になってから、学校との付き合いもガラッと変わった。子どもが学校に行ってないので役員は一切しない。学校の印刷物も学年末に取りに行くだけなので読まない。時たま御近所の友人から学校の様子を聞く程度。修学旅行費用やPTAの催し物に不審を抱いても何も言えない立場になった。友人に変だと思ったら指摘して変えてもらうべきよとけしかけるが、3年間という短い期間内では、頑張る気が起きないようだ。

 現在娘は中3だが、中学校のさわやか相談員と話すのを嫌う。学校の人達は「なにもわかってない」そうだ。私も一度何十年も前の不登校に関する論文のコピーを渡され落胆したことがある。それで山下英三郎さんの講演会禄を渡したりしたが読んでくれたのかどうかわからない。

 学校復帰が前提の学校との会話には親も疲れたが、何度か話す内に再登校の意志が全くないのが伝わったらしく、対応もだいぶ変わった。最近は担任の教師と会っても趣味の話しかしなくなった。不登校の児童が増えたせいか、学校に頼る気持ちが皆無の親にかかわる余裕がないのか、学校は登校刺激をしないし、あなたなりに進んで下さいという感じの対応で助かっている。(卒業式近くになると変わるかも)

 今、娘はピースボートという国際NGOの船に1人で乗り、3ヶ月半の地球一周の旅に出ている。帰るのは8月のお盆だが、国際交流を目的としたこのNGOに係わって1年半近くになる。帰ってきてどう変わるか、次に何をしようと言い出すかは分らないが、暫くは娘の後をついて行くしかないか、と思っている。

 今思うと、娘の学校との付き合い方で『ニコラ』との関係も大きく変わった気がする。学校に居た時、娘も親の私も学校や保護者と常に抗戦状態のようだった。それがよかったのかどうか不明だが、そんな状況下で『ニコラ』から沢山元気をもらっていた。

 子どもを通して学校や子育ての問題にぶつかった時、今も多くの親が1人で悩んでいるのではないかと思う。登校、不登校にかかわりなく、子どもの事で困ったり悩んだ時、これからも元気をもらえる雑誌『ニコラ』であって欲しいと思う。




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