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子どもへの向き合い方の違い


2002/09/23
子どもへの向き合い方の違い

現状認識に大差はないが、それをどう受け止め、どう対応するかという向き合い方に違いがある、と感じることがあった。
さいたま市で開催された全埼玉私立幼稚園連合会の第16回教職員中央大会で、「本当の幼稚園教育とは」と題された講演で、文部科学省初等中等局主任視学官・小田豊氏の語った内容についてである。
この講演には参加していないが、その講演の内容がかなり詳しく埼玉新聞に掲載されていた。その要旨がほぼ正確なものであろうとした上で、その内容について少し考えてみたい。

氏は次のように語る。
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これまで社会には「子どもはこうあるべきだ」という「子ども像」があって、閉鎖型の管理社会の中で育ててきた。それが豊かな社会に移行したことで開放型の情報社会に変わり、子どもを優等生の像に当てはめられなくなった。
今と昔では違う人間関係が求められているのに、大人は子どもへの接し方が分かっていない。だから子育てに不安を抱く親が増えている。
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中ほどの「優等生の像」というものが具体的にどういうものか、この要旨では分からないが、これを除けばほぼ納得の行く現状分析と言える。しかし、この後に続く、どう向き合えばいいのかという下りには、ちょっと首をかしげるものがある。

氏はさらにこう語る。
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(一九)六五年より前に生まれた「旧人類」は大ざっぱで単純だが、原始感覚があった。それ以降の「新人類」は原始感覚が失われ、精密機械のように繊細になった。だから高度な教育が必要になっている。
原始感覚は、自立して生きる力。昔は放っておいても育ったが、それを失った今の子にはステップを一つずつ踏んで教育しなくてはならない。だから幼児教育がより重要になってきている。ステップを踏まないと、「思春期症候群」になってさまざまな問題を起こす原因になる。
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これはとても重要なところだ。「原始感覚」や「繊細」はいいのだが、「だから高度な…」と「だから幼児教育が…」の間の捉え方が、私の場合とでは大きく異なる。それは「高度な教育が必要」ということと「ステップを一つずつ踏んで教育しなければ」の箇所である。
要旨の記述の問題であれば氏に失礼な話だが、これではあたかも子ども達が「旧人類=原始感覚」「新人類=繊細」という属性を持って生まれてくるかのようである。その捉え方の上に「だから…」以下の言葉が続く。が、本当にそれでいいのか。

むしろ、人間の子どもとして昔も今も変わらぬ姿や状態で生まれてくるにもかかわらず、どうして旧人類や新人類と呼ばれるような違いのある子どもとして、生まれてから幼稚園や保育園等に通う期間の間になってしまうのか、という考察が必要なのではないか。なぜ旧人類と呼ばれた子ども達は原始感覚を持っていたのに、新人類と呼ばれる子ども達はその感覚を失い繊細となったのか。この考察を抜きに「だから…」と繋いでは、そこから導き出される結論は大きな誤謬となるのではないか。

結論は、「繊細になったから高度な教育が必要だ」「原始感覚という生きる力を失ったから幼児教育で一つずつステップを踏むことが必要だ」のようにまとめられると思うが、果たして本当にそう言っていいのか。ここのところは、現場の先生方にお伺いしたいところだ。というのは、この結論では、原始感覚を失い繊細となった子ども達をより繊細にする関わりをするようにしか見えないからである。

幼児教育の中には、躾や集団行動を重視したり、情操教育を中心に据えたり、早期教育を謳い文句にしたりするところがある一方に、自由保育や土の上を裸足で歩かせたり裸で過ごさせたりして原始感覚を取り戻させるような自然児保育とか野生児保育というような保育や幼稚園教育もある。スポーツを重視するところもある。どれが良いとはなかなか言えないが、一般に自由保育や自然児保育のようなところで育った子どもは、小学校ではあまり歓迎されないようだ。
それは、生徒管理の問題も含め、公教育の向いている方向が、先に引用した「だから…」の方角にあるからではないか。

「高度な教育」とか「ステップを一つずつ踏む」ことの中身はどういものなのかは別に論じられなければならないが、幼児教育の段階から、子ども達をどう把握しているのか、そしてどこに向かわせようとしているのかはとても重要なことだ。そして、それが文部科学省初等中等局主任視学官の口からどのように語られているかということは見逃しにはできない。

それにしても、同じ現象を前にして、その捉え方や向かい方が大きく異なるのは、何故なのだろうか。それは畢竟見る者が問われているということかもしれない。さてそれでは、私の捉え方はどうなのだろうか。それは私には見えない。自分を見るには鏡のようなものが必要だ。その時、その鏡がどのようなものか、それがまた問われるのかもしれない。



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