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マル・ウォルドロンの死を悼む


2002/12/12
■マル・ウォルドロンの死を悼む 〜 青春を彩った哀切なピアノの響き 〜 

 「マルが亡くなった…」
 マル・ウオルドロンが亡くなったことを新聞で知った時、私の中で一つの何かが終わりを遂げたことを感じた。マル・ウォルドロンのピアノが奏でるシンプルでしかも強く胸に訴えてくるメロディは、私の青春と共にあったのだった。

 私が大学を出た後もまだ研究室に残っていて、まだ何者でもなく、そして何者にもなりたいとも思わず、無為のそれでいて奇妙な孤独の輝きに彩られていた青春のある特異な時期に、私はマルの音楽と出会っていた。当時、私たち若者の間ではジャズに関心が高かったが、彼のピアノの音楽は私の中でジョン・コルトレーンのサックスと並び特別な地位を占めていた。あの麻薬に溺れたようなビリー・ホリデイの気だるいような歌声を再認識したのも、逆に彼の音楽を通してであったように思う。

 ある時、神田の東京堂書店で働いていた知り合いの画家の娘がマル・ウォルドロンの生演奏があることを教えてくれ、私は一人で聴きに出かけた。御茶ノ水駅の近くの地下にあるジャズ喫茶の中はあまり広くなく、そして薄暗く、満員の電車の中のように人で込み合っていた。だが、彼の黒い指からあのタイプライター奏法とも言える単調な、それでいて一音一音が澄明な哀切を帯びた独特のメロディーが紡ぎ出されると、辺りは濃密な静寂に満たされて、各々がその一音一音、フレーズの一つ一つに耳を傾けていた。それは紛れもなく彼でなくては響かせられない鈍色の音の輝きであった。
 休憩の時、彼は人ごみを分けて私の前を通り過ぎた。間近で見たその丹精で精悍な風貌は、彼の孤高の音楽に相応しかった。ピアノによって力強くかつ静かに語る哲学者がそこにいた。

 青春の一時期、彼の弾いた「レフト・アローン」や「オール・アローン」のレコードをまるで憑かれたように幾度繰り返し聴いたことだろう。それはまだ何者でもなく奇妙な孤独の輝きの中にいた私の魂を、時には激しく揺さぶり、時には優しく慰めてくれたものだった。今はもうそのように聴くことは絶えてない。年に一、二度、青春の一ページを回顧するように思い出してかけてみるだけである。しかも当時のようなLPではなく味気ないCDのケースから取り出して。しかし、それでもなお、その音を耳にする時、なおその時空を超えて、あの頃の自分のマグマのような熱い思いが蘇ってくるのを禁じえない。

 しかし、もう、そのマルもいない。青春の出来事ももう遠い過去のこととなった。残っているのは彼の残した何枚かのCDだけ。その現実を改めて感じる。しかし、彼の音楽に耳を傾ける時、その全てがありありと蘇ってくるのを感じる。れは哀しくもありまた至福の時でもある
 マル、あなたの死を悼む。そして、ありがとう。



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