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新しい教育の可能性を求めて


1997/10
■様々な教育改革の実践から学ぶ

 居場所を失った子どもたち

 今、学校の存在理由が問われている。とりわけ公立学校の教育の存在理由が。学校は本当に子どもたちの学びの場となっているのか、学校は子どもたちの生きる力を育むどころか、子どもたちの命をすり減らすように機能しているのではないかと。

 戦後、新しい憲法と教育基本法の下に出発した日本の学校教育は、日本の社会の復興と軌を一にして進学率を向上させ、社会や企業の要請に応えていった。そして、一九七〇年代の末期、一九八〇年代初頭には高校進学率が九四%、大学・短大の進学率が四〇%の一つのピークを迎え、以後横這いとなった。すなわち、いわゆる日本の学校の近代化は、この時期一つの役割を終えたのである。ところが、この教育の歩みは、そのまま地域が解体し、家族が解体し、原っぱや路地裏が消えていき、子どもたちが人と関わりながら育つ空間や共同体が崩壊していく過程でもあった。いわゆる学校の荒れが問題にされだしたのはこの頃からであった。

 一九八〇年、三重県尾鷲の中学校の集団暴行事件で全国で初めて五一人の警官が導入され、以後中学校の卒業式に生徒達が荒れる事件が頻発し、警官が待機する光景が全国に広がった。その後、教師の力による押さえ込みによるいわゆる体罰が頻発し、学校に封じ込められた生徒達は行き場所を失い、いじめ、自殺、登校拒否へと向かうようになっていった。

 それまで日本の学校教育を支え、自明のものと思われていた価値や基準、学校は行くもの、学校とは教師から学ぶところ、学んで社会の有用な歯車となること、そのためには競争に勝ち抜くこと それらの価値基準が根底から疑われ出したことを意味していた。もはや、一九八〇年代頃から日本の学校教育は制度疲労を起こしていて、それを最も敏感に感じていたのは、当のそこで学ぶ生徒達であった。しかし、日本の教育行政はそれらの子どもたちの訴えに一向に動こうとはしなかった。それどころか、教育改革と称する様々な小手先の教育の手直しは、事態を一層悪化させる結果を招きさえもしたのである。

 「日本の行政は大きな犠牲が起きなければ変わろうとしない」これは、海外の報道機関が日本の行政の動きを評して述べた言葉である。まさに日本の教育行政もその感が深い。文部省が戦後最大の教育改革と称して「二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」を中央教育審議会に諮問し、その中教審が「ゆとり」と「生きる力」、「一人一人の能力・個性に応じた教育」などの答申を出したのも、子どもたちの多大な犠牲の末のことであった。しかも、その第一次答申、第二次答申が、果たしてどれだけ子どもたちの現実に応えるものになっているのだろうか。

  注目されだした新しい学びの学校

 子どもたちの学びを考える近代の教育改革の動きは、すでに第一次世界大戦後の一九一〇年代末〜一九二〇年代に民間・市民のレベルで始まっていた。そこにはそれまで人々が推進してきた物質文明や機械文明への批判や恐れがあった。そういう中で、ドイツのシュタイナーの学校、フランスのフレネの学校、アメリカの新教育の学校、そして、日本でも新しい学校が次々と誕生していった。しかし、その後世界を巻き込んだアメリカの大恐慌、ドイツのファシズムの台頭、日本の軍国主義などの下で次々と表舞台から消えていった。シュタイナーの学校にしてもフレネの学校にしても細々とその命脈を保っていたに過ぎなかった。

 しかし、それらの嵐の時代の中でも、その役割を終えたわけではなかった。一九七〇年代の終わりから一九八〇年代にかけて、伝統的な公教育システムがその制度疲労をはっきりと示し始めた時、教育の自由、子どもの関心からの学びの方法、子どもも親も参加する学びの共同体など、それら新しい教育理念に基づく学校が再び注目されだしたのである。例えば、シュタイナーの学校は一九八〇年に二〇二校、今や世界五〇カ国、六五〇校にも広がり、フレネ学校の試みは非英語圏を中心に広がり、今やフランスの文部省も認め一〇〇〇〇校にも及ぶ公立学校でも取り入れられている。デンマークでは保護者が資金を出し、公的な援助を得て自主的に学校を作っていくことが出来るという。この動きはアメリカでも進んでいる。

 日本でも、一九一〇年代から一九二〇年代以降自由主義的な新しい学校が相次いで誕生した。明星学園、玉川学園、自由学園、成城学園、和光学園など。自由の森学園が誕生したのは一九八五年であった。しかし、一九七〇年代以降本格的に導入された偏差値的価値基準から自由になることは出来なかった。たとえ偏差値や点数を取り入れなくても、フレネやシュタイナーのように明確な教育理念や方法論をを持つことの出来なかった日本の自由主義的な学校は、競争原理や選別を主とする日本の教育の現実の前に敗れ、屈していくこととなった。
 
  日本の教育の新たな可能性を求めて

 今、日本の教育はそのシステムにおいても方法論においても出口なしの状況にある。それまで日本の教育を支え推進してきた価値体系や方法論は自壊現象を起こしつつあり、しかもそれに取って代わる明確な具体的展望は持ち得ていない。それでもなお、学校の教師達、親達はそこから自由になることが出来ず、自分を縛り、また子どもを縛ろうとしている。そして、子どもたちはそのとらわれの中で苦しんでいる。これが日本の教育の現状である。むしろ、新しい時代の方向を鋭敏にキャッチしている子どもたちの方が、そこから自由になろうとしているように見える。しかし、その子どもたちを積極的に引き受ける公的な機関はどこにも用意されていないように思える。

 子どもたちの新しい教育の可能性はどこにあるのか。今、日本の教育の中でどのような試みが生まれているのか。今までの教育の問題点を見据えると共に、そのような教育の可能性について見ていきたいと思う。

  子どもから出発する学びの方法

 実は、今の日本の教育の抱えている問題を明らかにしたのは、教育研究者や教育評論家、あるいは教師、ましてや教育行政に属する人たちではなかった。今まで当たり前だと思われていた教育の在り方に鋭い告発を行ったのは、そこで学ぶ子どもたち自身であった。既成の形骸化した教育を内部から崩壊に導いたのは、学びの当事者である子どもたちであった。それまでは、教育の専門家と言われる人たちも、親も、今の教育にひどい歪みや問題があることを真剣に考えようとはしてこなかった。教育の専門家や責任者は、子どもたちの無言の抵抗や反乱にあって、はじめてうろたえ、その原因を探り、解説し始めたに過ぎない。

 今後、日本の教育を考えていく場合に、ここが肝要のところである。従来の教育が子どもたちによって崩壊されつつある現在、唯一の方法は子どもたちから出発するしかないということである。教師も、学校も、そして行政も、子どもたちに聞くことからスタートするしかないということである。

 例えば、日本のある小学校の教師はある時、授業の中で子どもたちの拒絶の眼差しに出会う。それまで従順であった子どもたちが、熱心に教えようとすればするほど、その心を閉ざしていくのを前にする。教師はその現実の前にうろたえ、その挫折の中から、教師が教えることの在り方をそのものを問い直し、子どもにとっての学びの意味と方法を考え出していく。

 また、例えば、フランスのフレネ学校の創始者セレスタン・テレネは、対独戦争で極度に害した身体で教師を続けることの困難さから、教師が声を張り上げて教える従来の指導方法とは全く発想を転換して、子どもたちの遊びの中に、子どもたちの生き生きとした興味と関心の中に、子どもたちの主体的な学びの方法を見出した。また、ドイツのシュタイナーは、かつて重度の障害児の家庭教師をしたときに体験した、障害児の中にある人間の精神の輝き、その魂に触れたことが後のシュタイナー学校の原点となった。

 例えば、アメリカのニューニーク、イーストハーレムのある中学校。かつて七割の生徒がドロップアウトしていたその学校の校長となったデボラ・マイヤー。かつては見失われる学校、つまり、学ぶ意味を失い、仲間を失い、支える意味を失い、やがては自分自身を見失う学校であったその中学校を、見出される学校、つまり学ぶ意味や目的を見出し、学び合う友達を見出し、自分の学びを理解してくれる教師を見出し、そして自分自身を見出していく、そういう学びの場に変えていった。そして、今やドロップアウトをする生徒はいなくなったという。

 今、アメリカでは、教育予算を大幅に増額して、新しい教育の実践に着手している。そして、チャータースクール、自由学校など、従来の教育のシステムにはとらわれない子どもの学びの試みがなされている。

 これら新しい学校の特徴は、教室の空間がそこだけで閉ざされておらず、外部に開かれていることである。学びの場というものが時間的空間的に固定されたものになっておらず、子どもたちが外に出かけていくだけでなく、外部のいろいろなものもまたそこに入ってくる。子どもたちの学びが人間の生きる社会や文化の基盤の上に捉えられ、地域の営みと密接につながっている。教師と生徒との関係も、もはや教師の一斉授業による一方向性のものではない。教え→覚えるという図式が問い直され、子どもたちの学びは自らの発見と創造の行為へとつながっていく。先に学ぶ主体としての子どもたちがおり、その学びを支援し保障するものとして学校があり教師がいる。その逆ではない。

  様々な子どもの学びの実践

 ところが、日本はどうか。公立学校の教室の規格は四角い二〇坪の空間に定められている。そこで、ほぼ欧米のクラス人数の二倍ほどの生徒達が集められ、一人ひとりの能力や適性、興味や問題意識とは関係なく、同じ教材による同じ進度の、そして同じ評価基準によるほとんど一方通行の一斉授業が行われている。この図式は、進路の複線化とか多様な選択肢とかが用意されつつある今も基本的には変わっていない。学ぶ器の数は増やしても、子どもたちの学びに対する認識は依然として変わっていないように見える。

 そういう中でも、これは新しい校舎でこそ可能なことだが、従来の二〇坪の閉じられた空間を、壁をなくすことで解放する試みを行っているところもある。すると、それだけでもそこに、従来の教師が独裁する閉ざされた教室王国とは違った授業の空間が生まれる。必要とあれば授業の形態も自由に変えられ、子どもたちも必ずしもその空間だけにとどまっている必要もない。その空間を少し離れて自分独自の研究を行うことも出来るし、自由に調べものに行くことも出来る。もはや教師だけに集中して学ぶ必要もないのだ。

 あるいは、たとえ従来の教室の空間であろうと、そこで様々な試みを実践している例もある。マニュアルはマニュアルにすぎない。それをどうプログラムし、実践するかは、教師の取り組みの問題なのだ。たとえば、教壇をなくし、座席の位置や向きを変え、討論会形式、あるいはディベート形式、あるいはまたいくつかのグループの配置にする。そして、教師は教室の中央にいたり、あるいは生徒と同じ位置に着く。教師は、ある時は黒板で説明し、ある時は個々の生徒の学習の支援者であり、またある時は調整役であり、相談員である。時には、机も椅子も使わず、床の上に車座に座って討論する。教師も生徒たちも、いかにのびのびと自分を出せるか、そういう学びの空間を作り出す試みである。

 しかし、今や教育は学校に任せておけばいいという時代ではない。その一つの方向が、地域や保護者に授業を開き、学校を開くという、むしろ欧米では当たり前の試みである。ある学校では、保護者が授業に参加て、教師達と共に子どもたちに教える授業である。中には、父母の多様な経験が活かされることもこともある。あるいは、地域の専門家や専門職の人が教師の役目をすることもある。そして、授業の在り方、授業の批判も自由に行う。現行制度がこうだから、というのは、実践しない者の言い訳に過ぎない。その枠の中でも、出来得ることをやるかやらないか、その違いは大きい。

  学校を離れた学びの場の創造

 さらに、子どもの教育を行うのは、何も学校だけの空間ではない。また、教育を授けるということは、必ずしも学校に通わせることを意味するわけでもない。いろいろな民間・市民の実践として、親達が運営するフリースクールやホームエデュケーションの試みもある。それらの多くは、学校に行かなくなった子、あるいは行けなくなった子、いわゆる不登校の子どもたちを引き受けるところが多いが、必ずしもそのような子どもたちばかりではない。たとえば、海外からの帰国子女を持つ家庭が、日本の教育の現状に懸念を抱き、アメリカで行っていたホームエデュケーションを行うことにした例もある。あるいは、これまでの日本の教育の現状に飽き足らず、また今後の教育改革の展望にも信頼を置けないし日々成長する子どものために待つわけにもいかず、今の教育システムの外に、子どもたちの学びのために新しい教育の場を作るグループもある。もちろん公的な援助はなく、親の負担やボランティアによって維持する。そこではカリキュラムや時間割、その他体験授業など、親や教師たちが集まり、相談し合って決めていく。そこは子どもたちの教育を問い直す場であると同時に、親や大人の生き方や価値観を問い直し、学び育つ場ともなっている。

  日本の教育改革とその方向性

 ところで、中教審の答申をいくら読んでも、新しい教育の可能性はどこからも見えてこない。社会というよりは企業の要請に応えるべくシステムを変えようという意図はみえるのだが、具体的な理念も方法論も見えない。誰のための教育改革なのか。子どもの主体的に学ぶ姿がそこからは全然見えてこない。しかも、国際化、情報化と自ら唱えながら、その教育改革の視点には、海外を含め、幅広い民間の教育改革の運動から学ぼうとしたものは見られず、狭い経験則と教育に対する偏狭な固定観念から自由になっていないように見える。

 一方、このことは大部分そのまま、教育改革を批判する側にもあてはまるのではないか。今や批判するだけでなく、批判に相当する実績や対案も必要なのだ。しかし、残念ながら、日本には、フレネ教育のように、長期の実践の中で多くの教師達が関わる中で検討を重ね、研究を重ねながら実践してきた蓄積というものがない。いつも個々ばらばらな試みに任されてきたのだ。

 しかし、今は学ぶべき材料は豊富で、至る所にあるとも言える。それらから学びつつ、日本の現状として何が可能で、どのようなシステムや方法論が望ましいのか、子どもの創造的な学びを中心に据えて検討を重ね、かつ実践していくことが必要だろう。よりよい教育を行いよりよい子どもを育てることは、よりよい明日のアメリカを創ることだと、クリントン政権は考えているという。これはそのまま日本のことでもあるはずだ。



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