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高卒認定試験でこれだけ変わる


2003/11/15
■不登校セミナーと親子相談会■ 〜高卒認定試験でこれだけ変わる〜
---- 民の教育の復権とフリースクールの役割 ----

講師 馬場 章(フリースクール・ぱいでぃあ代表)
■大検が変わる

みなさんご存知だと思いますが、大検が今年から従来12科目あるいは11科目だったのが9科目あるいは8科目に変わりました。そして年2回ということになりました。その後どうなるのかなと思っていたところ、今年の8月に文部科学省が従来の大検の方法を変えるという発表を行いました。そこで、では具体的にどのように変わっていくのかということを、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

大検の動向を調べてみますと、近年受験者数が増えています。平成6年度で約1万7670人、平成14年度には2何7425人となっています。ただ残念なことに、合格率は平成6年度では29・3%、それが平成10年度には50%台に乗せたんですが、最近はまた下がってきて平成14年度には40・2%となっています。つまり、受験者数は増えているけれども過半数の人は受からないわけです。

なぜかといいますと、大学入試センター試験ではありませんが、科目数が多いということが最大のネックになっています。文科省によりますと大検は縮小する方針が出ておりますが、当面は続いていくと思います。

現在の教育制度で高卒資格を取得するためには、全日制の高校に入るか、あるいは定時制の高校に入るか通信制の課程を取るか、そういう方法しかありません。つまり文部省が認可するところの制度に従わなければ高卒の資格がとれないわけです。その中で唯一大検だけが高校に属さずに高卒の資格に相当するものを取得できるものとしてあったわけです。それが今後変わることになります。

■高卒認定試験の導入

ではどういうふうに変わるのかというと、大検の方は来年の春から新制度で実施されるみたいです。将来的には発展的縮小というんでしょうか、そういう方向に向かうようです。と同時に高卒認定試験を導入しようという方向で話が進んでいます。これは来年度から実施するということではなく、どうも平成17年度から始めるようです。そのときに、大検から高卒認定試験へと繋がることになります。

今までの大検というのは、確かに大学への道はつくけれども資格としてはあくまでも高校中退、あるいは中卒であったわけです。つまり、大検は大学への道は開かれるけれども、かつて学校に属していた時の評価と何ら進展していないのです。

最近、全国の不登校生は多少減ったとはいえ約13万人、そして高校中退者が約10万人くらいいます。その中で、やはり学歴がないために苦しんでいる人たちもいます。私たちのところで毎月定期的に「ひきこもりの広場」というのを開いていますが、そこには20代、30代の若者たちがやって来ます。最近の話でも出たんですが、「僕はある自由な活動をフリースクールに通っていて、元気にはなったけれども全く勉強をしなかった、中学卒業した後美容系の専修学校に行ったけれども、社会に出ると全くの下働きであるし、20歳を過ぎたら“中卒はいいよ”というような扱いを受けて、どこも雇ってくれない」と。20代半ばにしてこれからどうしたらいいかと考えているんですね。

今までの制度の中ではそういう若者たちが出てしまっていた。働きたくても働けない。だからひきこもってしまったそのような中卒のひきこもりもいるわけです。もちろん、ひきこもりの中には高校中退や大学卒の学歴を持っている人もたくさんいますけれども、一つのネックは高校の時に周りの支援が足りなかったためにそのままずるずると家にいるとか、働きたいと思うけれども、学歴がない、職がない、技術がないということがたくさん見られるわけです。今回大検の制度を変える背景にもそういうことがあったのではないかなと思います。

はっきり言いまして、文科省がこういう方針を発表する5、6年も前から現場では言って来たことですし、高校全入という形でも働きかけてきたことでもあるわけです。この大検という中途半端な制度を何とかしなければといけないと。そのまま大学に進学する人はいいんです。ところが大学に行かないで職に就こうという人にとっては苦労して取得する割にはメリットがあまりない。高卒と同等に認めてくれるところもありますが、高卒資格とは認めないところも多かったのです。

■民間教育で高卒資格も

今、大検で最も問題になっているのは朝鮮学校、そして専修学校ですね。約75万人ほどの生徒が専修学校に通っていると言われます。それから、フリースクール等に通っている不登校生や高校中退者がいます。その他にも中学を卒業して行く職業訓練学校とか、語学学校やカルチャースクールとか民間の学校というのはいろいろありますが、これらは全く文科省外の教育機関であるわけです。そのほか、大検に関しては大検予備校、サポート校等がありますね。こういうところに通ってもそのままでは高卒の資格にはならない。だからサポート校では通信制の学校と結んで高卒の資格を得るということになっているわけです。

ところが今後、この高卒認定試験が実施されることになれば、大検では不可能であったことが可能になります。中卒で終わってしまった、あるいは高校を中退してしまったという人にも、今までのように通信制や定時制にわざわざ籍を置かなくても高校卒業の資格を得られる道が開かれてくるわけです。

今までは文科省管轄下の学校に行かなければ高卒の資格は得られないよとなっていましたが、高卒認定試験が実施されるようになれば、民間教育の場においても実質高卒レベルに値する勉強をしていれば高卒の資格は得られるし、将来の道も開かれてくることになります。

■高卒の資格試験化

今、高校への進学率は97%と言われていますが、これは高校の義務教育化が進んでいるということです。何でこれを文科省は義務教育としないのかというぐらいに、社会的な面では学歴として最低の基準、社会的な最低基準のステイタスとなっている。ところが、学校教育の現場ではそれにさえ属さなくなる人たちを大量に創り出している。これは変えていく必要があったのです。

民間の側からそういう主張をしていたわけですが、実は経済界の側からもそういう声はあがっていました。日本生産性本部で橋本大三郎さんなども言っていました。学者だけでなく政治家の中からもそういう声が出ていました。今回の場合も、それがきっかけになったようです。その議員さんの場合は特に専修学校の場合を取り上げていました。中学を卒業した後に専修学校に進んで一生懸命勉強をして卒業して職に就いても、世間では中卒の扱いしかしない。じゃあ高卒の資格を取るためにはそれから改めて三年間学校に入って勉強しなければならないのかという問題があったわけです。そういう人たちの救済と同時に高卒を社会の基準として認めようじゃないかということがあったようです。そこで今回そういう声を受けて、ようやく文科省が認める方向で動き、中教審にも答申を求めたということのようです。

高卒資格とは何かということを考えて見ますと、たとえば埼玉県の公立高校であればトップに浦和高校というのがありますが、一方には底辺校とか教育困難校という学校もあります。ところが、どちらを出ても高卒という資格に変わりはない。でも学力には雲泥の差がある。だけれども、兎に角そこを出なければ高卒の資格は得られないので、子どもたちはその学校のシステムや規則に自分を合わせなければならない。浦和高校ではピアスや茶髪の子がいても、いわば大人の扱いで、校則があってもなきがごとくで、校則によるお咎めはほとんどない。ところが、底辺校に行くとスカート丈が短いだの長いだの、ヘアースタイルがどうだの、襟元がくずれているだの、黒髪で行ってもわざわざ太陽に透かして見られ、お前は髪が赤いから染め直して来いだの、いろんな形でその高校の決まりや基準に自分を合わせなければならない。合わせていかなければその高校の卒業認定を受けることが出来ない。

そういう子の中で、とても合わせていられない、とてもやってられないと飛び出す子も出てくる。その学校の価値に自分を合わすだけ合わせて自分を失う子も出てくる。反発した子どもの代表的な例としては、今回国政選挙で落ちてしまいましたけども、保坂展人さんという方がいます。麹町中学時代に学内で校則に違反する政治活動をしたということで、頭は良かったにも関わらず内申書に不利なことを書かれたということで、全日制の高校受験にことごとく不合格となったわけです。学力で駄目だったわけじゃないんですね。学校の評価に合わないから駄目にさせられたんですね。それが内申書裁判に発展するわけです。仕方なく保坂さんは定時制に通うことになったわけです。つまり、生徒の評価というのは各学校の恣意性に任されているわけです。だから、高卒というのに統一した基準はなかったわけです。

極端に言えば、その学校のお気に入りの生徒にならなければ、お前の高卒資格は認めないよ、嫌なら出て行け、というのが学校のあり方であったわけです。それの救済措置として大検があったわけですが、そこにもやはりとても不合理な面があったわけです。それが今度、大検に代わって高卒認定試験になることで、高校を出ていようと出ていなかろうと、それだけの学力があれば高卒として認めるという道がようやく開けてきたわけですね。ただこれが全て目出度いかというと、相変わらず文科省の基準に合った評価を受けなければいけないという問題は残るわけですが、それは今後の問題だと思います。とにかくそういうことで困っていた生徒にとっては大きな道が出来たと言えるのではないかと思います。

■中卒認定試験について

 高卒認定試験と同じようなシステムに中卒認定試験というのがあります。たとえば不登校をしていた子が全く学校に行かないまま3年間経ってしまった場合に、子どもをそのまま卒業させていいのかという意見があります。いっそのこと中学を終える子どもたちに一斉に中卒認定試験を受けさせてはどうかという議論も出ています。たとえば、京都府教育委員会では次のように言っています。

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平成15年度就学義務猶予免除者等の中学校卒業程度認定試験の実施について

 病気等やむを得ない事由により、保護者が義務教育諸学校に就学させる義務を猶予又は免除された方、また、やむを得ない事由により登校することができない方及び卒業することができなかった方等に対して中学校卒業程度の学力があるかどうかを認定するための試験を行います。合格された方には高等学校入学資格が与えられます。
1 受験資格
次の(1)〜(4)までのいずれかに該当するものが受験できます。
(1)  就学義務猶予免除者である者又は就学義務猶予免除者であった者で、平成16年3月31日までに満15歳以上になるもの。
(2)  保護者が就学させる義務の猶予又は免除を受けず、かつ、平成16年3月31日までに満15歳以上に達する者で、その年度の終わりまでに中学校を卒業できないと見込まれることについてやむを得ない事由があると文部科学大臣が認めたもの。
(3)  平成16年3月31日までに満16歳以上になる者((1)及び(4)に掲げる者を除く。)
(4)  日本の国籍を有しない者で、平成16年3月31日までに満15歳以上になるもの。
2 試験項目
  中学校の国語・社会・数学・理科・外国語※(英語)
    ※ 外国語については、願い出によりドイツ語又はフランス語を受験することが可。
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ただこれが全国統一の試験となり、この試験に通らなければ中卒とは認めないということになりますと、不登校生を救済するという本来の認定試験の性格とは違ってくるわけです。大体、就学義務とは中学校に通わなければならないという義務を意味するわけではないですし、親が子どもの教育を受ける権利を保障している限り、どこで学業を積もうといいわけです。ただ、そういうこともありますから、大検から高卒認定試験に移行することが必ずしも全てバラ色となるわけではないとも感じています。

■学校教育の何が問題か

公立学校の問題を指摘すれば切りがないのですが、一つだけあげさせてもらいます。この資料の最後にも付けておきましたが、アメリカで公立学校の先生が自分の子どもを公立学校に通わせていない人が40%もいるといいます。日本の場合、統計的に出ているかどうか分かりませんが、事情は似たようなものではないでしょうか。自分は生計のために公立学校で働きながら、「自分の子どもはこんなところには通わせられないよ」と端から公立学校への進学を問題にせず、有名私立学校に通わせる。それがどうにも叶わなかった子どもだけはしようがないと公立学校に通わせる。そういうことがいろんなところで見られます。今日のお集まりの方の中にも学校の先生が何名かいらっしゃって何か悪い気がするんですけれども、そういう面はやはり否定できないと思います。

学校教育の中で今何が一番問題かと言いますと、生徒が人間として育たなくなってきていることだろうと思います。よく「学校というところは勉強するところである」「将来のために社会性を身に付けるところである」と言われますが、今その両方が怪しくなってきています。学力低下の問題だけでなく学びからの逃走といって、学校での学びそのものがおかしくなってきています。とくに高校・大学と上の学校に行けば行くほど遊び呆ける子どもたちが多くなって、何も考えていない子どもたちを大量に排出している。大学がレジャーランド化しているという話も聞きます。「日本の学校は学ぶところではない遊ぶところである」という感じにもなっている。社会性を養うということについても、閉ざされた学校の論理論理がどれだけ社会に通じるものになっているのかということに関しても数々の疑問があります。
そういう中で、真面目に考えれば考えるほど、「そういうところではやってられない」と感じる生徒が出てくるわけです。「俺はどうでもいいや、大過なく学校の先生とお付き合いをして通過すればいいんだ」と思っている生徒はいられるかもしれないけれども、自分の生き方を真面目に考え、将来自分はどう生きて行ったらいいのかと真剣に考える生徒にとっては、学校の現場というのは非常に苦しいものになってしまっているという気がしています。

■学校に合わない子どもたち

そういう意味でも、学校の基準で自分を評価するのではなく、「学校の先生が自分をどう評価しようと、自分は自分なりの努力をして高卒という資格を取るんだ」という道が出来てきたのはいいことだと思います。

今は内申書がらみの問題も多いのですが、かつて私らが子どもの頃は子どもの評価はほとんど試験の成績一本でしたから、若気の至りというんでしょうか、随分先生に突っ張ることも出来たんです。またそういう関係を通して逆に生徒と先生の間に人間的な繋がりも出来たんです。やはり当時も変な先生というのはいまして、「俺はその先生に評価されなくてもいいよ、俺は俺なりにしっかりやるから」と思って、たとえば定期テストとか文化祭とかいろいろな場面では頑張るわけです。すると、先生のほうも、「あいつ俺にいろいろ楯突くけれども、いろいろやっているな」と認めてもくれたのです。ところが今は、IQからEQという言い方がありますけれども、内申書で生徒の内面まで評価し、時にはそれを数値化するという場面さえあるわけです。そんな本来の教育とはかけ離れた部分で生徒たちが苦しめられているということもあります。

そういう中で、学校から逃走する生徒たちも出てきます。自分が認められないことで荒れて非行に走る子どもも出てきますが、それは必ずしも生徒の責任とは言えない場合も多い。考えてみますと、子どもは初めから悪に染まって生まれてくるわけではないですね。そこには家庭の問題等もあるでしょうが、学校の中で、お前はこうだ、お前はこんな人間だ、馬鹿だ、アホだ、間抜けだ、という評価を受けて育ちますと、実際にそういう育ちをする子どもになりかねないですね。昨日も届いたメールを見ますと、たらい回しされてきた問題教師が、学級王国という密室の中で子どもに繰り返しひどい扱いをしていて、とうとうその子は学校にいけなくなってしまった。ところがそのことは学級外の人には分からない。校長も分からない。教育委員会も分からない。だから「問
題のないいい先生ですよ」という評価を受けていた。そういうようなことは今、いろいろな場面であるんだと思うんです。

■民間の教育活動

学校を離れたそんな子どもたちを支えてきたのが、学校外教育と言われるいろいろな民間教育の活動だったのではないかなと思います。文科省が認可した学校ではないいろんな学校、学園、施設というものがその働きをしてきたんだと思います。たとえば、塾にしても、公教育の半数近くの生徒が通っていると思いますが、その中には進学・受験のためと頑張っている子どもたちも多いと思います。もしそれがなかったとしたら、学校教育は今の学力を維持していけるんでしょうか。公教育と偉ぶっているけれども、実はいろいろな民間教育の力におんぶに抱っこしているのが現状ではないかなと思います。だけれども、それを運営するお金は国からは一銭も回ってこないわけです。

私どもはフリースクールをやっていますが、そこから見えてきたことですけども、中学生だけでなく小学生も高校生も私どものところを求めてきます。その人たちはその費用を全部家計の中からはたいています。けれども、中にはとても払い続けられないという家庭もあります。生活保護の家庭もあります。でも教育委員会に言っても一銭も出てくるわけではない。そういう家庭の子であっても何とかなりたいとくればそのまま放っておくわけにもいきません。それでお引き受けしたところもありました。ところが、学校では600名の生徒がいれば600名分の教育費が、たとえば1人80万〜90万円というように国や自治体から降りてくるのです。それは本来子どもの教育を十全に行うための費用であるはずです。ところが、不登校というような形で学校を離れますと、生徒にもその家庭にも一銭も回ってきません。籍は学校にありますから、その子の教育費は学校に下りているはずです。その子が通わなくなった学校に。特に月に1、2度でも相談室や適応指導教室に通っていれば不登校とさえ換算されないかも知れませんから、そのまま学校に下りているはずです。

これは公立学校による教育費のただ取りですね。ちょっと民間では考えられないことです。それはおかしくはないか。そのお金はもともとその子の教育を保障するために、家庭の教育権を支援するために使われるためのものであったはずです。ところが現実は、単に文科省下の学校であるというだけで、全ての教育の予算を使っています。一方、民間の機関には手弁当のところもあります。学校を離れた子どもたちの援助を自前でやっているわけです。ところが、今まではそれを学校と認めない、高卒とは認めないということで一銭も回っては来なかったわけです。その辺を変えていくのにも、この高卒認定試験というのはある力を発揮するのではないかなという気がしています。

■日本の学校教育のはじまり

日本で公教育が始まったのは明治5年の学制発布から だと思いますが、実はそれ以前から日本で教育は行われています。江戸時代は勿論ですが、ずっとさかのぼって、たとえば清少納言が寝そべって本を読んでいたなどというのがありますね。紫式部やその他の当時の人にしても、高い素養や知識を持っていました。彼らはどうやって勉強したんでしょう。今のような学校はなかった。だけど、民間の中にそういう人たちを育てる場があったんですね。特に江戸時代になって寺子屋、藩校、私塾、郷校などが出来ましたが、その力というのは非常に大きなものでした。

明治の初め頃、日本に国家の主導する学校ができました。しかし当時、国家主導の学校の数よりも実は民間の教育の数の方が多かったといいます。全国に1万5千を超える寺子屋や私塾があったのです。江戸・東京だけでも千を越える数の民間教育の場があったようです。それが明治政府によって国家が教育を取り仕切るということになったわけですが、ただ初めは国家主導の教育には国民からの大きな抵抗があったりもしています。とにかく明治政府が教育の定着に成功した背景には、実は幅広い民の教育力がすでにあったということが大きかったのです。

その明治政府が行った教育というのは、それまでの民間の教育とは違って、富国強兵、殖産興業という国家の目的に沿う人材を育てるという発想であったわけです。これは今も変わっておらず、国のために役立つ人材をどう育てるかということが公教育の基本であったと思うんです。

■公教育の公とは何か

じゃあ、公教育の「公」とは何かということが問題になりますが、その前に「教育って何だろうか」と考えたら、それは一人ひとりの人間が人として十全に生きるための支援であると言えるかもしれません。ところが、学校に行ってしまうと非常に矮小化されて、ペーパーのテストでいい点数を取って、競争に打ち勝って、人生に勝つこと、というようなものになり、その過程で何か重要なものが欠落していってしまうわけです。本来教育というものは公教育であろうと私事性の教育であろうと、教育と名がつくからには絶えず「公」という概念がついて回ります。「公」という概念なしには教育という営みは成り立たないのです。それがわが子だけを想定した教育であろうと、公との結びつきなしにはあり得ないわけです。公にとってどんな意味を持っているかということが絶えず問い直されなければならない。それでなければ、それは単なる独りよがりの知的遊戯にしか過ぎない。

そう考えると、公教育というものがあえて「公」の教育と言わなければいけないその「公」とは何かと言ったら、それは民のための教育ではなく国家のための教育なんだということを明らかにするためなんだという気がします。日の丸・君が代から始まって国家のためのいい子ちゃんを作るため、国家の方針に従う子どもを作るための教育だということになります。

ところが、実は「公」というのは1つではない。ある学者の説では、「公]には3つあると言います。1つは「国家」としての公、もう1つは「市場原理」としての公、そしてもう1つは「市民社会」としての公だと言うんです。そう考えると、国家が考える公教育というものの性格が分かりますし、また、民間の行う教育もまた公教育なんだということが分かります。そして、教育というものはもともと全て公教育なんだということも。

■教育に口は出すけども金は出さない日本の政府

ところが、面白いことがあります。国家が言うところの公教育というものは、それだけ国家が主導する教育ですから、さぞかし国家が金や力を注いでいる教育であるに違いない、子どもたちの教育に随分精力を注いでいるのだろうと思われがちですが、本当にそうなっているのでしょうか。
ここに1つ興味深い資料があります。これは平成15年度に文科省が発行した「教育指標の国際比較」というものです。日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、中国等の、いわゆる先進諸国の教育状況を統計・比較したものです。政府刊行物として1月21日に刊行されていますから、政府刊行図書を扱っている書店でも手に入れることが出来ます。
この統計をずっと読んでいきますと、日本は江戸の昔から教育には熱心な国民でしたから、教育の普及や進学率についてはさすがに先進国並みの高い線を維持しています。対生徒の教員の比率にしても悪くはない。ところが、高等教育に対する教育費に関する記述のところにいたって愕然としてしまいます。日本の政府は高等教育にお金を出していないんだということがはっきり分かります。さすがに国立大学にはお金を出していますが、私立大学にはほとんどお金を出していない。奨学金も日本では返さなくてはいけない。ところが外国ではほとんど返す必要はない。

もっと具体的にみますと、外国では日本で言うところの私立大学というのはあまりありません。これは日本が私学に熱心だったというよりは政府の高等教育への対応が遅れていたから私学がたくさん参入したと言えるのではないでしょうか。もちろんアメリカにも私立大学はありますが、これはフォードの息子とかビル・ゲイツの子どもとか、そういう一部の超資産家だけがいく学校です。ですから、アメリカで数の上から日本の私立大学に相当するのはむしろ州立大学ですね。これは1997年の統計ですが、日本では国立大学の場合、初年度納付金73万9200円、公立大学は83万7472円、私立大学の場合には123万9536円。ところが資本主義国の本家アメリカでは、日本の私立大学に相当する州立大学では35万9214円です。イギリスでは14万3250円ですが、実質的にはこれは本人に戻ってくるお金です。そして、アメリカもイギリスも入学金というのはありません。フランスの場合も入学金はないですし、大学に行くのに授業料を納める必要はありません。諸費用が1万4880円かかるだけです。ドイツの場合も1万2148円です。各国の政府は次代の社会を担う子どもたちのためにこれだけお金を出しているんです。ところが日本は少子化だ、大変な時代が来ると言いながら、全て自己負担ですよね。教育費は国民が負担するのが当たり前だよと、政府はあたかも万国共通の理念のような言い方をしているけれども、全くのデタラメです。その他も推して知るべしです。こんな感じですから、もし海外で勉強しようかなと思ったら日本にいるよりも高度な教育を受けられますね。

アメリカと比較すると、小中学の場合は日本の子どもの方が頭がいい、というかテストではいい結果が出ているようです。ところが、高校・大学と行くと雲泥の差がついているんです。日本の学生は、この間中国で語学留学生が裸踊りをして非難を浴びたという事件がありましたが、海外に行っても勉強をしないで遊んでいます。海外に行っても日本人同士で付き合って現地の言葉を覚えないで帰ってくる。現地の国民感情に理解が足りなかったなんて言っていましたが、何のために留学したのか分からない。日本の学校でもオチャラケの授業を聞いて、勉強をせず考えようとしない学生がどんどん作り出されている。アメリカなどに行きますと、とてもシビアです。政府が費用を出す代わりにシビアですから、ものすごく勉強します。この差は今後ますます大きくなるのではないでしょうか。だからもし日本が沈没するとすれば、その一つの原因は日本がこんな教育システムを取っていたことにあるということにもなってくるのではないかという気がしています

■教育は誰のものか

ですから,ここでもう一度教育のあり方、教育って何なのかを考えなくてはいけないのではないでしょうか。このまま国に教育を任せていていいのか。国は口を出すけれども金を出さない。それはみんな家庭の問題だ、子育ての問題だと言って。だけど、政府が家庭の子育てに特別支援をするわけでもない。たとえば家庭に子どもが2人いるとします。その子たちがみんな私立の高校・大学と進学した時のことを考えると、大変な負担ですね。理想は子ども3人と言われていますが、全部家庭の負担となるとよほどゆとりのある家庭でなければ大変厳しい。おいそれと何人も子どもをつくれない。そういうことを今の政府は国民に要求している。

では民間の教育はどうなのか、よりお金がかかるのじゃないの、という問題がありますが、これは後ほど考えたいと思います。

教育はいったい誰のものか、といったら、やはりそれは受益者である子どものためのものですね。ところが公教育というと、教員はどうしても校長の方を向いてしまうし、校長は教育委員会の方を、教育委員会は文科省の方を向いてしまう。これを崩していかなければ展望はない。近頃、志木市で市長が教育特区の構想で教育委員会を廃止したいと言いましたね。当然、文科省がダメと言いましたけれども。
もう一つ別の機運がありますね。横浜市では、教育委員会は残すけれども実質的に権限を奪おうと、人事と教育予算権を教育委員会から取り上げるという方針を出したようです。教育委員会を廃止するとまずいのは地方教育行政法?に抵触するからです。だから、形だけは残しておいて実質は奪ってしまおうという感じかなと思います。今後こういうことがどんどん出てくるのではないでしょうか。

以前にもいろんな自治体の長が集まった会議で、「教育を何とかしなくてはならない、だけど手を出せないんだよ俺たちは」という話が出たことがあります。費用は国や自治体から出ますが、実質的には人事権や予算権は自治体にはない。ただ決まったことを追認するに過ぎない。全部教育委員会で決める。教育委員会は文科省の支持命令に従っている。ですから、埼玉県では今回上田知事になりましたが、このままでは教育を変えますと言っても根本的なことは何もできない。各自治体にありながら自治体に制約されない独立したものになっています。
もともと教育委員会は公選制の時には地域から委員が選ばれていました。ところがそれを潰してしまった。その理由は、教育は政治から独立していなければならない、時の政治権力や自治体の長、地域の政治力に左右されてはいけないからだと。聞こえはいいですね。それで教育委員の公選制をやめて任命制にしてしまった。でも、その結果がこれなんです。 ですから、「あなたたちどっちを向いて教育を語ってるの、子どもの方を向いてよ」というのが今後の方向性ではないかなと思います。

■近代学校教育の終焉

ですから、大検を見直すというのは大きな手がかりではあるんですが、それだけにとどまらず、学校制度そのものを見直していかなければならない。そしてあまりにも単一的な価値で貫かれた一本路線の教育行政を多元的な価値が生かされ多様なニーズが満たされるものに変えていかなければならない。だけど、教育委員会さんやってよ、と言ってもちょっと無理なのではないか。ならば、各地域の現場で教育に携わっている人たちが民間の力をもとにして変えていくしかないという感じがします。

実は現今の教育に財界の方も業を煮やしたところがあって、というのは教育の動向は将来の政治経済に多大な影響を及ぼすからですが、最近の報道で、株式会社立の学校が全国に三つできるそうです。これは文科省外の学校です。その他にNPO立の学校、フリースクールなどの民間立の学校が、たとえば今までの大検予備校とかサポート校なども含めて、新しい教育の自由化に向けて進んでいくでしょうし、やっぱり私は集団の場には合わないという子はホームスクールでやるということも認められるようになるかもしれません。話によると天才と言われるエジソンもアインシュタインもLD児だったのではないかと言われていますが、彼らは学校に行かなかったから思考活動も分断されたり制約されたりすることなく、自分の思うところを追求できたからなんだという見方もあります。そのような考えでホームスクールを望む人も出てくるかもしれない。

自分は何を学びたいか、どこで学びたいか、誰に教わりたいか、そういうこともみんな子どもが決める、子どもが決められなければ家族で話し合って決める。そういう形に本当はなっていくべきなんじゃないかなと思います。それは要するに子どもの教育権、学習権というものを保障するということで、そういう意味では、明治の初めから進めてきた国家主導の近代教育というものは、これは日本だけの問題ではありませんが、一つの曲がり角、終焉を迎える時期に来ているんじゃないかなという気がしています。

■民間のつくる学校

今後いろんな民間主導の教育運動が広がっていくのではないかと思います。アメリカの例で言いますと、チャータースクール運動というのがあります。これはお金は行政が出すけれども運営するのは教員を含めた地域の民間人だよという学校です。アメリカでものすごい広がりを見せ、政府もそれを支援しています。それからもう一つ広がりつつあるのは、教育バウチャー運動です。これは特にブッシュ政権になってから推し進められるようになったと思うのですが、アメリカにも公立学校の教育困難校、底辺校というのがたくさんありまして、「俺ここにいたら勉強にならんよ、とんでもない人間になるよ」という公立学校がいっぱいあるんです。「おれはこの学校にいたくない、もうこの学校ではダメだ」と見限った時にどうするか。行政が支援してくれるんです。自分の好きな学校に転校することができる。家庭の経済力があまりない場合には、私立学校に移る費用も教育券を発行して行政が応援してくれる。これが教育バウチャーという制度です。ただ一つ教育バウチャーに問題があるとすれば、アメリカは私立学校というとほとんど宗教系の学校なんです。それで行政が宗教に金を出していいのかという問題があるということです。日本にももちろんキリスト教系の学校とか仏教系の学校とかありますけれども、あまり数も多くないし、宗教教育というよりは一種の情操教育や教育理念として掲げているところが多いでしょうから、問題はさほどないだろうと思います。

実は教育バウチャーについては、埼玉県の上田知事が当選した後、「知事への手紙」というのがありましたから、教育バウチャーのことを書いてメールを送ったことがあります。不登校の子どもたちに教育バウチャーを認めて欲しい。たとえば適応指導教室に通っている生徒は1割ちょっと位でしょうか。フリースクールに通っている生徒もその程度でしょうか。残りの7〜8割の子どもはどうしているんでしょう。つかんでいますか。勉強する機会も奪われ、いろいろな支援も奪われ、教育棄民の状態にあります。その人たちの中からひきこもる人たちもたくさん出てくるんじゃないですか。そんなことを書きました。その時に、先ほど述べたように、学校に回っている費用を本人のために使えるようにしたらどうでしょうと言ったんです。県の財政は大変だと言っていますが、これで県の財政は特に痛まない。無駄に学校に回っている教育費用を本人に回せばいいだけのことなんですから。そうすれば長い目で見れば、長くひきこもっていて生活保護を受けなければならないとか、精神科に保険でずっと通わなければならないとか、いろんな形で自立していくことが困難な人を増やさないための予防にもなるんではないでしょうかと。

埼玉県にはひきこもりの親の会の本部がありまして、私自身も接触を持っていますが、ひきこもりは全国で80万人とも100万人もいると言われています。その多くはかつて不登校になった後に立ち直れないまま学齢期を過ぎ、20代、30代になってしまったとか、学ぶ機会も仕事をする機会も奪われてそのまま吹き溜まっていってそうなってしまった。そういうようになってから対処療法として費用をかけるよりは教育的予防的な措置として、教育バウチャーのようなあり方を認めてもいいのではないですか。そういうことを書いたんですけれども、1ヵ月後ほどに返ってきた知事からのメールには、趣旨には賛成だ、しかし、義務教育の子どもたちは市町村に属しているんです、まあ県として出来ることはやります、というような回答でした。これが県の出来る限界なのでしょうか。こういうことも含めて、今後、民間が子どものためになる本当の学びの場を作っていく、教育費が本当に子どもの学習権を保障するためになる使い方をされるように運動をしていく、そういくことがますます重要になっていくという気がしています。勿論、高卒認定試験の問題も同時にやっていかなければならないと思っています。

■家庭の教育

今、「教育は本来家庭でやるべきものです、しつけをしっかりやってください」という言われ方をされるようになっていますが、私たちが子どもの頃は違っていました。親が学校の方針に何かを言うと、「教育のことは学校に任せなさい。家庭で学校のことを言うものではない。学校に文句を言うような家庭は最低だ」というような見方でした。それが変わったのは、公教育が破綻を来たし、学校だけでは何とも出来なくなって来たからです。つまり、本来のあるべきところに返さなくてはいけなくなった、ということなんだろうと思います。ですから、これはいい機会なんです。本来、教育というものは家庭で見定めるのもだ、というのは確認しておいた方がいいと思います。そういう意味では、学校にお任せの教育ではなく、民間人の一人ひとりが、子どもの背後にいる親の一人ひとりが考えていかなければならない時期に来ているのではないかなという気がします。

■学校教育は何を育てるところか

学校教育の目標は文部官僚を育てることなのかな、大蔵官僚を育てることなのかな、あるいは学校の先生のコピーを作ることなのかなと思うことがあります。だけれど、学者や学校の先生に何が出来るんだろう。世間には寸分の狂いもなく建具を作る職人もいます、高い鉄骨を見事に組み立てる工事現場の人もいます、水一滴も漏らさぬよう配管する水道工事の職人もいます、ぽたぽた水漏れがするようでは新築の家もすぐダメになりますからね、そういうことをしっかりとやり遂げる人たちがいるわけです。辛いなーといいながら毎日客と交渉する営業周りの人たちもいます、いらっしゃいいらっしゃいと人当たりよく店頭で販売している人たちもいます。そのように世の中には多種多様な仕事をしている人たちがいるわけです。だけど、学校教育でそういう職業があることを想定してやっていますか。一歩社会に出れば多様な職業があり、多様な人間の活動があります。ですから、多様な学びが必要になります。ところが、今の学校教育はそういうことに何ら対応していない。ペーパーだけやって、みんなに勝ち抜いて、空虚な思考の頭を作り上げるだけが目標のように見えなくもない。今の学校教育の現場は人間性を養うどころか人間性をそぎ落とす場にさえなっている。それだけじゃないよということもあるのは確かですが、全体としてそういうことが言えるのではないでしょうか。

だからこそ、これからは民の教育の出番だろうと思っています。で、その時、何が邪魔かと言えば、学習指導要領んですね。その縛りを解いた教育が出来ないものかというのが一つあります。
それから、不登校の子どもたちに対して学校復帰というムードがまた強まってきましたけれども、不登校の子は学校に戻せば解決なのだろうか。学校の先生は生徒が学校に復帰すれば、これで一件落着と思うようです。ところが、フリースクールではその子がやってきた時からが始まりなんです。この違いというのは大きいです。来た時から子どもとの本当の教育が始まっていくのです。
もう一つは、不登校がこれだけ多くなりますと、学校って何なの?教育は学校で行わなければいけないの?という問いが子どもたち自身から発せられ広がっていっていますが、今新めて、学校って何だろう、学校教育って何だろうって、もっと広く考えて、公教育、子どもの教育って何だろうと、われわれ一人ひとりがもう一度現場に帰って考えてみなければいけないのではないかなという気がしています。

■高卒認定試験の動向

話が飛びましたけれども、大検は来年も続きます。それでは今まで大検を取っていた人はどうなるか。高卒認定試験に変わると今まで大検を取っていた人の資格はどうなるのかという問題があります。「あなたたちは以前の大検のシステムで受検したんだからやはり中卒のままだよ」ということになってしまうのかどうか。この辺、大きな問題を含んでいると思います。方向としては大検受験者の救済措置として、今まで大検をとって頑張ってきた人も高卒認定に準ずる措置は取るみたいです。

それからもう一つ、高卒認定試験は全国統一の試験になるようですが、そうなった時に今の大検の試験と比べて学力のレベルはどうなるのか。大検の場合は先ほど述べたように受験者の半数以上の人が落ちています。それをそのまま高卒認定試験に持ち込むと大変なことになるだろうなと思います。
専修学校に行っている人がそこを卒業したけれども学歴としては中卒のままだという人たちがいます。それから途中で学校をドロップアウトした人たちもいます。今は特にペーパーの勉強は必要と思わないと考えている人たちも多いと思います。そういう人たちも含めてやはり救済していかなければならない。高卒というのはもはや義務教育であるという国民的合意が半ば出来ていると思います。ただ高卒を義務教育と文科省が認めないのは、お金を出したくないからです。義務教育と位置づければさらに莫大な費用を国が負担しなければならなくなるからです。

いろいろアメリカから戦闘機や軍艦を買い、イラクに大量のお金を使っても、国は教育の分野にはものすごい渋ちんですよね。ですからそういうことで苦しんでいる学校もたくさんあって、学校教育法の縛りもあって大変なんだろうと思います。その辺も変えていく必要があると思います。

実際問題として、大検から高卒認定試験になった場合に、レベルはおそらく1ランク下がるのではないかと想定されています。これは来春までかけてじっくり考える方針だそうですから、まだ結論は出てませんけれども、フリースクールや専修学校などにかなり詳しい与党の議員が提案したわけですが、そういう趣旨が活かされることになれば、かなり実現する確率は高いと言えると思います。そうなると、民間教育というのが、今までのような単に学校教育を補完するものから、学校教育とは違う独自の価値を持つ活動を行っていくことがますます必要になってくるのではないかと思います。

フリースクールは全国に300くらいあると思いますが、今以上にその存在を主張できるようになるでしょうし、それを含めた民間教育の役割は今後ますます重要になってくると思います。そして学校教育、公教育と競り合う場面がいろんなところで起きてくるのではないでしょうか。子どもたちも学校教育の場で勉強しようか、フリースクールで勉強しようか、その他何々学校で勉強しようかと、自由に学ぶ場を選択できる権利を持たなければいけなくなるのではないかなと思います。今の民間教育というのはやはり実態としては学校教育の補完の場なんですよ。そのあたりも考え直していく必要がある。21世紀の教育は学校任せ、行政任せではなく、子どものそばにいる人たちが全てが考えていかなければならない問題ではないかなと思います。

ですから、高卒認定試験も単なる国家のお墨付きを得るための試験に終わらせることなく、それを望む子どもたちが将来社会に出て生き生きと活躍できるための一つの手段として利用できるものになればいいんじゃないのかなと思っています。高卒認定試験の全体像はまだ決まっていません。これをどうするかということも私たち一人ひとりがどういう意見を持っているか、どういう形が望ましいと思っているか、それで随分違ってくるのではないかなと思います。

ただ一つ補足しておきますと、高卒認定試験に皆が皆賛成というわけではなく、大検が将来実質的に意味を持たなくなった時、学校外の人は人間的な育ちをどうやって証明できるかという問題が残るわけです。もう一つは、卒認定試験というペーパーテストが受かればそれでいいのかということです。今学校に行っている生徒たちというのは単にペーパーだけのために学校に行っているのではない。そこでいろんな訓練をし学びをし、それらを総合した人格の獲得を成し遂げ、お前は卒業に値するから卒業を認定するのだよという意見があります。ところが、高卒認定試験はそのあたりの問題をあまり考えていません。

ですから、子どもに関わる側としても高卒試験に受かればOKだというのではなく、もっと先のことを考えて、この子が社会に出たときに、何をしたいと思っているか、何が出来るか、どう支援していけるか、も考えながら教育の活動を行っていくことが必要になってくるのではないかなと思います。
以上です。

■質疑応答から

★高卒認定試験試験の問題

大検については、今まで、企業や行政において「お前を高卒と認めるよ」というところと「お前は中卒だよ」としか認めてくれないところとが実際ありました。それと同じようなことが高卒認定試験においても起きる可能性があります。ただ一つ救いがあるのは、大検の場合には文科省がこれを高卒とは認めていなかったことがあるんですが、高卒認定試験の場合にはあくまでも文科省の認定になるわけですから、そこに大きな違いがあります。
教育は単にペーパーの点数を取ればいいというものではありません。やはり育ちの問題というのがあります。ただ、かえって学校の中では育たなかったという子どもたちもいるわけです。他の場に行った時にそれをどう養っていくかという課題は残るわけで、それをクリアーして初めて高卒認定ということになれば一番いいのではないかなと思います。

それと二点目の「学校のブランド」という問題。たとえばこの埼玉でも浦和高校を出た、川越高校や春日部高校を出たとか、浦和一女を出たというのはブランドになりますよね。これは大人の意識の中でなかなか変わらないのだろうと思います。ただそれがどれだけ意味を持つのかということは、私たちも社会に出てみれば分かりますけれども、会社に就職する時に、あるいは結婚式の時の紹介とかには意味を持つかもしれませんが、組織の中に入ってしまったら個人の中身の問題になりますよね。なかなかブランド志向というのは消えないと思いますけれども、大検を経て大学に行く、あるいは通信制を経て大学に行く、あるいは定時制の課程を経て大学に行く、という場合にはさほどブランド志向は問題にしていないのではないかと思います。とにかく自分が社会に出て、充実した人生を送りたいという時の一つの関門として利用しているに過ぎないのではないかと思います。
そういう意味で考えれば、ブランドに拘る、出身校に拘るというのは大きな問題とは考えていないのではないかなという気がしています。それに拘る人は年月をかけてもいいですから頑張ってくださいというしかないのではないでしょうか。
それに今は履歴書を簡略化して、学校名を書かないとか、校名で差別をしないとか、年齢や性別で差別をしないとか、学歴で差別をしないとか、というのはだんだん一般化しているわけで、それは本人の中身の問題ではなく形式上の問題ですから、そこは今後だんだん緩やかなものになっていくのではないかと思います。

★学校の先生を自由に

公教育は悪いような言い方になったかも知れませんが、大半の先生は真面目にやっていると思います。ただ残念ながらその才能を活かせる機会が本当に限定されているように思います。せっかく教育に夢と希望を持ち、情熱をもって学校に入った先生方が十分にその能力を活かされない現状になっているのはものすごい問題だと思います。教育現場の自由というのが確保されて下手な縛りをやめて先生を信じることから始めれば公教育の中でもっと素晴らしい教育が可能になるのではないかと思います。

★高校の現場からの発言

私は高校の教員でいろいろな高校を経験して来まして、ずっと上の方の高校も経験して来まして、今は高校の定時制です。その前はいわゆる底辺校で、その前は大体公立の普通高校でした。
私は高卒認定試験にはずっと前から賛成派でした。それは有名な教育学者も言っています。有名な人では橋爪大三という人、それから「何故日本の教育改革はうまくいかないか」という本を書いた今多摩大学のクラークさん。
2点だけ言いますと、実は底辺校に行った時、真面目で一生懸命勉強する子がまずやめてしまうんです。なぜか。授業が成立しないんです。高卒の資格だけ欲しい人が授業に来て邪魔をする、寝てる、授業が成立しない。埼玉県では本当に多いんです。この試験があれば、教習所の運転免許と一緒に考えてはいけないんですけど、レベルの認定が学校によって相当違う。とにかく出席日数が半分〜3分の2を超えていれば卒業させようという感じなんです。もう1回留年させたって大変なだけですから。とにかくひたすら3年いればそれでいいと。そういう状態ではっきり言えば高卒のレベルを教員と生徒が引っ張り合っているんです。生徒は、「先生問題をやさしくしてくれよ」と。教員の方も大量に赤点を出せば校長が教育委員会から起こられますから、赤点を出せない。でも、赤点を出さなければ歯止めが利かない。とにかく小学校くらいの足し算・引き算くらいのものを追試で出す。誰でもそれは通りますよ。
何を言いたいのかと言えば、スタンダードなものを決めておけば、全然勉強しない子だってそれに向かって頑張りますよね。最低なものをクリアーして、それを高卒にしようということです。




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