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今、校則・生徒指導を問う


1996/04
■今、校則・生徒指導を問う…桶川西高生企画の集会「このままでいいの?@学校A」に関連して

 三月三日(日)、桶川市公民館において、桶川西高校の生徒たちで組織した「S・O・S JAPAN」(代表・角田淳くん)とそれを支援する「桶川の教育を考える会」(代表・松本美紀子さん)との企画により、「このままでいいの『学校』」と題する集会が開かれた。
 聞き役として、ルポルタージュ『父よD母よD』などの著者でもあるジャーナリストの斎藤茂男さんが招かれ、同校や市内の高校生、父母、同校や近隣の高校の教員、教育関係者、教育に関心のある一般の市民等五十数名が参加して、生徒指導や校則のあり方、部活や教育の現状など、高校生側からの報告や意見を中心に鋭い論議の場となった。最後に、斎藤茂男さんが「命としての存在」の視点を提示し、能力による価値観が単なる学校のシステムを越えて「心のシステム」にまで及んでいる危機を指摘し、現実の問題を手がかりに行動することを勧められた。

 問題多い整容指導
 同校の一人の生徒は、「桶川西高校の生徒指導の中で、特に整容指導は毎月必ず行われる。学年で検査のやり方に若干の違いはあるが、各学年が体育館等に一ヶ所に全員集められ、一人の生徒に教員七〜八人が取り囲んで、整髪料をつけているかどうか、髪を脱色させていないかどうか、耳にピアスの穴がないかどうかなどを、容赦なく髪に手を突っ込んだり、耳たぶを引っ張ったりして調べられる。女子生徒の中には、直接身体に手をふれられなくても、睨まれて体を固くする人もいる。が、それに対して、生徒の側では何か言える雰囲気ではない」と報告した。

 同校の生徒たちで組織した「S・O・S JAPAN」(代表・角田淳くん)が一年生二クラス、二年生二クラス、三年生三クラスの協力を得て桶川西高校の「校則・整容指導」についての十六項目のアンケートと自由意見を集計して調査した結果によると、@整容指導をやる必要がない六四%、必要である九%、A整容指導のやり方はやり過ぎである六三%、適当である一一%、B前髪・長髪指導(規制)はやめてほしい六九%、必要である五%、E頭髪に指を入れる検査はやめてほしい八一%、必要である四%、Fスカートの長さの指導はやめてほしい七九%、必要である七%、GHIセーター等の規制はやめてほしい七三〜七四%、必要である二〜四%、Kピアスの穴の検査はやめてほしい六九%、必要である六%、Nアクセサリーの取り上げはやめてほしい六九%、必要である六%、などとなっている。

 【自由意見】では、「つらくてこの学校をやめて 」「厳しすぎて学校に来たくない」「軍隊みたい」「暴力社会」「先生達は頭がおかしい」「先生の考え方がいやらしい」「個性がなくなる」「この学校には自由がない」「生徒に対してのイヤガラセだ」「がんじがらめになっている気がする」「生徒をもっと信用してほしい」「怒鳴らないでほしい」「他校と比べてやり過ぎ」「関係(違反)ないのに集めないでほしい」等々。三年生のなかには整容指導に理解を示す生徒もいるが、全面的に賛成という生徒はいない。(三年生の場合は他学年ほど厳しくないという。)

 また、別の生徒は、「学校がつまらなくなっている。それは、生徒と学校の間に壁が出来て、同校では、生徒が心の問題を抱えていても先生に相談するということはあり得ない。ある先生は@整容指導はコミュニケーションだA、と言っているが、一方的なものだ。また、K先生は生徒の前で@こんな学校つぶれるよA@こんな学校つぶれちまえAと言った。これはこの学校、生徒を全部否定したことになる。こんな先生が桶西にはたくさんいる。先生を信用できない。それで生徒が学校をやめたいと言う。学校をやめていく。」と訴えた。

 また、教師の体罰・暴力行為についての言及もなされた。
 ある生徒は、文化祭のとき、自分の落ち度ではないのにいきなり顔を殴られメガネのレンズが外れた。「壊れたらどうするんですか」と抗議すると、「弁償する」と。「欲しいのは金じゃありません」と言うと、「大人ぶってんじゃねえ」と言われた。また別の生徒は、「班別行動の食事の時に、遅れて行くと皆が正座させられていた。自分も正座すると、A先生は理由も聞かず、いきなり蹴ってきた。反論も出来なかった。」また別の生徒は、「部活(剣道)の時に、突きをわざと外してやられた。気を失った生徒には、水をかけた。また足払いをうけて、倒れたところ背中を打たれた。絶対に忘れられない」と言った。暴力を振るう先生はこの他にもいるという。生徒は、「それぞれ個性があるのに、すべて皆と一緒にしなきゃすまないという感じだ。」と訴える。

 また、このような指導に名を借りた肉体的暴力の他に、頻繁に言葉の暴力も受けていると訴える。ある全校生徒の朝礼の時に、アルバイトの話になった時、K先生は、「失業保険をもらっている奴よりはましだけど」と暴言を吐いたという。生徒は、「モラルや場所をわきまえて話さない。」と、先生方のあり方を批判する。「体罰という名の暴行、言葉の暴力、生徒指導に名を借りた嫌がらせ。コミュニケーションどころではない」と義憤をあらわにして、しかし、落ち着いて静かに訴える。

 主催者側の北村市議からは、「生徒の実状を詳しく知らないお母さんの中には、厳しく指導して欲しいという意見もある。あの子たちとは付き合うなという人もいる。ちょっとやり過ぎだというお母さんも。また、嫌じゃないという生徒もいる。しかし、彼らが名乗りを上げられたのは、親が理解してくれ、勇気を持てたからだ。」との説明があった。

 生徒の批判を受けて、斎藤教諭は「生徒が全面否定に至ったのは残念。生徒手帳に書いてあるきまりのワクの中に入れるのはいいことだと思っている。世間の常識もあり、そのワクの見直しは若干やっている。殆どの先生は我慢させるべきだと思っている。」また、アルバイトに関する発言には「深夜のアルバイトはやってはいけないという文脈の中で使ったことを理解してほしい」と述べた。また、それに付随して、本校に、「学校がつまらない。授業がつまらない」という生徒に言及し、退学の比率が高いこと、勉強よりも働きたいという生徒が多いとも語った。

 同校三年のTさんからは、「先生は生徒のことを思って指導している。こんなことが新聞に書かれて悔しい。厳しいのが好きだという生徒もいる。自分自身はそんなに厳しい学校だとは思っていない。注意されるのはそういう自分の方にも責任がある。先生に言う前に自分はどうかと考えてみるべきではないか」と、三人の生徒に反論し、泣き声で学校を養護する場面もあり、ある親から「感情的にならないで、相手のことを聞けるように」との一幕も。

 同校の橋本教諭は、「剣道部で三年前にも体罰で鼻の軟骨を折る生徒が出た。、そして、かなり恐怖心を抱きながらやっている生徒がいる。また、同校に赴任した時、整容指導に驚いた」と報告した。そして、「規則を見直さなければならないこと、生徒の人権、子どもの権利条約が守らなければならない。ところが、生徒が自分を主張できないものがあり、先生の人権感覚を疑っている」とも発言。「偏ってはいけない、皆平等に、いい学校にしようという結果がこうなった」と。そして、昨年度の卒業生の、厳しい指導により「自分の考え方がおかしくなったのかと思った」と告白した手記などを披露した。

  また、集会に参加した他校の教員の一人、桶川高校のある教員は、「かつて自分のいる高校でも床からスカートの丈を計ったりしていた。学習面で低いと言われる学校、新設校に厳しい場合が多い。そのような学校に行きたくないのに来た生徒が多く、その三分の二が学校が面白くないという生徒である」と発言。そしてどうやって学校の秩序を維持していくかの難しさを指摘した。

 同校の一年男子の父親は、「校則の罰のあり方、指導のあり方に生徒の一生がかかっている」として、具体的に今わが子が染髪の指導を受け、髪の毛を刈らないと学校をやめざるを得ない状況にあること、しかし、「本人は学校には行きたいけれども髪の毛は切りたくないと言っており、息子の気持ちがつかめない、そこで生徒たちに聞きたい」と発言があった。それに対して、生徒からは「髪を切ることは屈辱的である、髪は自己表現である、先生は自分が学生時代の感覚が唯一正しいと思っていてそのワクからはみ出る生徒を認めようとしない」などと述べた。

 さらに、大宮北高校の生徒指導部長の先生は、「うちの校則は一般的なものだが、校則に違反しても通わせながら直すように指導している。個人的にはなんでもいいと思っている。髪を取るか退学を取るかと言ったら、いま退学を取る生徒が多くなっている。生徒が息苦しくなって、今の状況に対する抵抗として自己表現したもの。生徒が髪を取るのは自分自身を取ることだ。生徒の心からの叫びと受け取らないといけないのではないか」などと述べた。

 桶川西高に通っていて、子どもが二年で退学したという母親は、「大人から見たら何だと思うことでも、子どもから見たらプライドがある。子どもが@こんなはずじゃなかった、こんな学校いたくないAと言ったときに、世間や学校ではなく、親としてどう思うかを子どもに示すと子どものプライドが守られていくのではないか。自分の場合は、@やめてもいい、そのかわり自分の行動に責任を持ってAと対処した」と述べた。

  身体が不自由な同校二年のIくんは、いろいろ頑張っているのに、英語の点数がどうしても取れないために退学させられる窮状を訴えた。そして学校は勉強しに行く所だけではでないと、助けてくれる仲間たちのいる学校生活の喜びを訴えた。
 Iくんの家庭教師をつとめる大学生は、外れる子どもが出来るシステムが問題だとし、同校が退学させた場合、その生徒に対するその後の責任を問い質した。

 それに対し、同校の斎藤教諭は、「学校にあわなくて退めていく生徒はやむを得ない。退学した生徒には何もできない」と返答。大宮北高の戸谷教諭は多様なものを認められない教育の状況を指摘し、制服の自由化に反対する生徒が多数を占める例などをあげた。

 川越で「部活と学校生活を考える会」の活動を行っている亀田さんは、「先生方が一人ひとりの生徒を見るという姿勢がない。先生たちは上の方、校長や教育委員会や文部省をみている。学校の管理による不満やストレスなどが歪んだ形でいじめに向かっていく。今先生たちはいじめで頭を抱えているが、実は自分たちが行っている指導の中にいじめを育んでいくような土壌があるということに気づいてほしいと語った。

 『ニコラ』の記者からは、事前に生徒たちに校則を示してそれを受け入れて入学すべきかどうかを判断する機会を与えること、入学した生徒には自分たちで校則を変えていけるシステムを用意することなどの提案があった。

 同校の吉田教務主任は、「桶川西高校の共通理解としては、一つは基本的生活習慣の確立、二つ目は保健衛生上の問題、三つ目は学習環境の維持を上げることが出来る。街で見かける時は問題ないとしても、学校という集団の中での全体としての問題というものがある」と答えた。

 制服について、亀田さんは、「川越高校では全部私服だが問題はない。近所から見苦しいと苦情がある話も聞かない」と述べた。また、生徒の角田くんは、教務主任の挙げた点の一つ一つに反論し、偏差値からしか生徒を見ていないと述べた。大宮北高の戸谷教諭は、「桶川西高で先生たちがまじめになってやっている。それがこわい。「子どものためだ」とまじめにやっていることが、本当は子どものためにはなっていないということを考えなければいけない」と先生方の指導の再考を促した。

 締めくくりとして、ジャーナリストの斎藤茂男さんが語った。「教育に経済至上主義の価値観が影響している。そして子どもの能力に値段をつけ、人材として少数の経済・社会をリードする人間とそれ以外の直接生産活動に従事させる人間とにふり分けた。それが結果的には偏差値による輪切り体制となった。そして、そのような人間の価値観が、単なる学校のシステムを越えて、心のシステムとなってしまった。それで、いわゆる底辺校と言われる学校で働いている教師たちが、毎日校門指導等を行っていると、そういう考え方、人間観にまきこまれていくという悲劇が起こっているのではないか。

 今職員室の中で子どもの問題を真剣に話し合う雰囲気がない。皆工場労働者のようにワープロに向かっている。教育に人間的な生き甲斐を感じている教師がいなくなった。そういう学校が生徒にとって面白いはずがない。
 いま人間が能力存在としてではなく、生命存在として受容されていない。生産的経済的観点や目的観を抜きに、命として絶対的なものなんだと受容すること、そして皆一人ひとり違うんだということ。そして違う存在としてお互いの自分らしさを尊重し合えるような関係の中でこそ人間は安心してこの世の中を生きていける。そのことの確認が戦後社会の中で非常に薄らいで揺らいでいる。
 皆さんの中に対症療法的なものでは不可能だという意識があるだろうが、かと言って観念の世界だけで言い合っていても仕方がない。現前にある問題を手がかりにして行動を起こしていく以外にない。」などと語った。 校則・生徒指導を問う

 全国各地の中学や高校の校則には、社会の一般的な常識から見て、極めて不合理なものが多いようだ。そして、生徒や親ばかりでなく、教師自身も学校のシステムから少し離れてみたときに、「おかしい」と感じている場合も結構多いようでもある。

 ところが、そういう教師もひとたび「学校の教員」という衣を身にまとったとき、「校則」という超法規的な規則を盾に、抑圧的なシステムの体現者として生徒の前に立つことになる。合理的な説明など、生徒にすることなどできないことを自らよく認識していながら。ただし、中には、そのような思考回路さえ失っている教師もいるようなのだが。

 なぜ「校則」は不合理なことが多いのか。それは生徒の人権を守るためではなく、むしろそれを抑圧するために機能しているからである。生徒の権利を明文化した校則などまず皆無であろう。校則に生徒の人権や権利はタブーなのである。
 校則は当初の教育行政官による命令から、戦後は職員会議の審議を経て学校が生徒に同意を促すものに変わってきているが、上の者が下位の者に示す「心得」であることに変わりはない。
 また、校則は生徒の道徳に呼びかけるものから集団の規範を示すものまで種々雑多であるが、これは生徒の憲法とは言えず、特殊な集団の絶対的な戒律のようなもの、あるいは小さな警察国家の法規のようなものである。ここで決まりは生徒を守るためではなく、一方的に支配し管理するためのものである。そして、「この決まりに誤りはなく最善のものであり、これに違反するものは悪である」という考えが貫かれている。だから、違反者には有無を言わさぬ指導、懲戒や体罰が控えている。

 ところで、校則の厳しい学校には、しばしば問題のある学校が多い。その結果、校則による管理がますます厳しくなる。が、それは生徒に対する先入観に基づく厳しい管理によって、生徒の自立を妨げてきた結果である場合も多いのではないか。
 生徒の自治能力の衰退が叫ばれて久しいが、生徒自治復活への援助、校則策定・改廃への生徒参加等によって、新たな秩序ある学校への展望が開かれてくることが意外にあるのではないか。今一度校則のあり方を根本から考え直すべき時である。(A)





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