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「高校能力検定試験」 の導入について,


2004/02
■「高校能力検定試験」の導入について

平成16年2月  浦和高校定時制教諭 萩原紀男

1 はじめに

私は埼玉県立高校教員として7校の勤務経験をしてきた。常盤女子高、蕨高校、浦和北高、伊奈学園総合高校、草加西高校、そして現在の浦和高校定時制である。職業校、進学校、新設校、総合選択制高校、底辺校、定時制と多様な高校で沢山のことを学ばせて頂いた。この間の教育界をスローガン的に辿れば「『15歳の春を泣かせるな』の新設高校急増期」「『個性に応じた入試や教育課程』の多様化政策」「『詰め込み教育からの解放』のゆとり教育」そして現在「『分数の出来ない大学生』の学力低下」といった所か。私は幸いなことに丁度その時々に話題になったことを実体験出来る高校に勤務していた。
 そして政治はいつの時代も国の将来は教育にあり、ということで教育改革を論議し様々な政策を実施してきた。しかし教育現場では、新たな政策が実施されるたびに違和感があり、現場の声がどこまで反映されているのか、政治家や審議委員の単なる思い付きではないか、という会話が交わされてきた。現在の学力低下問題についても、学習指導要領は上限でなく下限を定める、学習時間を増やす、入試科目を増やす等の声が聞こえてくるが、果たしてこれで学力低下が防げるのか。ここらで小手先の改革だけでなく、広い視野から見た大胆な改革を考える時期ではないかと思う。私は本論で現場の立場から高校生の学力低下をいかに防ぐかについて一つの提言を試みる積もりである。教育に関心を持つ多くの方々に是非読んで頂ければ幸いである。

 日本ではこれまで教育改革の名のもとに、多くのエネルギーが入試改革に向けられてきた。改革の目玉は個性、意欲、目的意識を重視する推薦入学の導入であった。それまでの知育に偏り過ぎた中学・高校の教育内容を改善する狙いもあった。その結果知育偏重は確かに改善された。そして、個性、意欲、目的意識を持つ者を選抜し入学させたはずの高校・大学は、それらの生徒を伸ばす特別なプログラムを用意出来ないまま、入学生の学力低下を嘆いているばかりである。この状況では近々また入試改革が叫ばれ、当事者である生徒達が戸惑い振り回されることになりそうである。最近の朝日新聞の教育欄でも、「日本の教育が直面する最大の問題が『入試』である」との文面があった。当事者である学生やその保護者にとっては確かにそんな面もあろうが、高校や大学の関係者そして教育行政に関わる人達までもが入り口である「入試」にのみ関心を寄せているのでは、教育改革はいつまで経っても小手先のものにとどまり、本来の教育論議に入っていけないのではないか。
 日本はこの辺で、入口だけでなく教育内容や出口にまで好影響を与える様な教育システムを導入する必要があると思う。先日、英国に留学した生徒の報告文を目にした時、次の様な文面が印象に残った。「留学して1年経った今は大学入学資格試験に向けて猛勉強をしている。日本に居た時これほど真剣に長時間勉強したことはない」というものだ。現在の学力低下を招いた原因として、「知育偏重への反動」「週5日制」「ゆとり教育」「学習内容の削減」等が挙げられることが多い。これらのことは確かに言える、しかしそれに勝る要因として、子供達が学習意欲を高め将来の夢に繋がる様な、社会的なあるいは教育制度としての「インセンティブ」の不足が大きいのではないか。これまでは極端に言えば中高生の学習意欲を引き出すインセンティブは入試だけであったと言ってもよい。現場の教員としては寂しいことだがこれは現実である。問題はたった一度の入試結果が、その後の人生に大き過ぎる影響を持ってしまうことだ。かといって「テスト」そのものを否定しては学習意欲を引き出すことは現実として不可能に近い。とすれば入試という入口のみではなく、教育の中身や出口に関わる、学習意欲を引き出す為のインセンティブとしてのテストを導入することがよいのではないか。

 ここでは後期中等教育の「学力低下問題」に焦点を当て、いかにしたらこの状況を変えることが出来るかを論じてみたい。その一つとして「高校能力検定試験」の導入を提案したい。そしてその試験には難易度の異なる複数レベルの試験を用意する。またこのテストには「大学入学資格試験」の位置付けもする。この提案の動機、有用性、導入方法、適用方法等を以下に述べる。


2 高校の単位取得について

学習に対する意欲と知的興味を喚起するのは授業者である教員の任務であり、実際に現場の多くの教員は日夜その努力をしている。しかし高校進学率が95%を超える現在、全ての子供にそれを期待するのは無理があるのではないだろうか。それが通用したのは高校進学率が同世代の60%以下の時代までだと思う。現在中堅以下の高校では学習面に関して次のような深刻な実態に陥っている。

まず底辺校から中堅校までの高校の中でも成績下位の生徒に焦点を当てよう。彼らが高校に通う理由を三つ挙げれば「みんなが行っている」「友達に会える」「中卒だと就職が不利」といったところになる。高卒の資格取得だけが目的になっている彼らに、学習意欲を持てと言うことに無理がある。彼らは何はともあれ、高校の卒業資格が欲しい訳だ。
 ところで高校卒業の要件は3年間で約80単位〜90単位取得することである。そして単位取得の要件には科目ごとの「履修」と「修得」がある。「履修」は所謂出席日数のことであり、年間授業日数の2/3の出席を持って「履修」と見なされる。実際の場面では欠席時数が1/3を超えると「履修不可」となり、ほとんどの高校では一科目でもそうなると進級不可となり、原級留置つまり落第するかまたは退学することになる。そのどちらを選ぶかは生徒本人の選択になる。高校中退者数の増加が問題になるが、ほとんどの場合こちら「履修不可」のケースである。

 一方「修得」というのは学習内容を身に付けたと言うことであり、通常は定期テストの結果が重視され、それに日常の小テスト、提出物、レポート、授業態度等で判断される。そしてこちらの方は高校によってはある程度の猶予、例えば卒業までに90単位学習するとしてもそのうち82単位修得すれば「卒業可」の様になっている。つまり逆に言えばいくつかの科目は修得出来なくても卒業が出来る。ところが実際にこの制度を適用しやすいのは進学校や単位制の高校なのだ。というのは、仮に底辺校でこの制度を適用すると、そうでなくても授業崩壊に近いのにますます授業がやりにくくなる。つまり生徒にとって学年の途中で、いくつかの科目の修得をあきらめることが可能であり、ただ出席さえしていればよい訳だ。そうなると授業崩壊のリスクはますます高まるので教員側としてはこの制度の適用に躊躇することになる。
 このことでどんな状況を招くかと言うと、生徒の評定に際して「履修不可」つまり俗に言う赤点を付けにくいということである。つまりある科目の教員が赤点を付ければ、その生徒は落第又は退学に追い込まれる訳で、特にその生徒にとって赤点が一科目だった場合、教員はその生徒への憐憫の情も働き何とかしてクリアさせる為テストのレベルを下げる場合が多い。

 それではこの履修条件を厳しくして積極的に赤点を付ければどうなるかと言うと、退学者や留年者が大量に出ることになる。現在でも高校中退者は多いのにこれ以上増えるのはどうか、そのこともまた社会的問題として指摘されるであろうし「入学させたからには卒業させる」というのが教育界における常識のようになっている。現に各学校の校長は退学者が多く出た場合、県教育委員会の指導を受けるため、赤点を出すなと現場の教員を指導している。私の前任高では校長が赤点を出した教員を呼び付け叱りつけていた。赤点を出すのはお前の努力が足りないのだという訳である。そうなると赤点を付ける教員は生徒からも上司からも場合によれば同僚からも責められ四面楚歌である。生徒に一定のレベルを要求し真面目に取り組もうとする教員ほど孤立することになる。
こういった状況では必然的に「修得条件」つまりはテストを際限なく易しくすることになる。多くの底辺校では定期試験直前の授業で、テスト問題を解説し答えを教え、そのまま同じ問題を試験に出すというようなことが行われている。極端な場合、テストが0点でもレポートさえ提出すれば「修得」と見なすなどということも生じているのである。つまり「修得」に関しては全くクリアすべき壁は存在しない。ここでは学習指導要領も高校生としての基礎基本も全く意識されることはない。個々の高校での学習レベルは何処までも下げる事が可能であるということである。「履修」条件としての壁は存在していないに等しく、極端に言えば勉強はしなくても出席さえしていればよい訳だ。この状況に関しては、退学者が今以上沢山出て、その子供たちが昼間町で仕事もせずにブラブラし、ときには犯罪に走るより、学校という檻の中に閉じこめて置くことに大きな意味がある、とのうがった見方もある。
 しかし現在の「学力低下」の問題は、いつかは社会に出る子供たち自身の自己実現や生き方の問題だし、日本社会の世界に於ける盛衰にも関わる問題でもある。なぜなら学力低下は上で述べてきた学力下位の子供達だけの現象ではないからである。

どんな集団でもある割合で上位層と下位層は生じる。そしてどちらに転ぶか分からない中間層が6割程度いる。そしてその集団が全体としてよい方向へ向かうか、よくない方向へ向かうかはこの中間層がどちらの方向に転ぶかで決まる。日本の高校生の内、上位2割下位2割を除いた残り6割の中間層が、目標とすべき壁を与えられず、学習に対する意欲を持てないまま高校時代を過ごすとしたら社会全体の損失でもある。彼らは環境さえ与えられれば学力の伸びる可能性を持った者が多い。ところが卒業するための学習に対する壁は存在しないに等しく、彼らの時間とエネルギーはアルバイトや遊びに向けられてしまう。もし仮に大学進学を希望する場合は、定期試験前のほんの数日間やる気になれば、中堅から下位の高校で上位の成績を取ることは容易いことである。その成績で大学入試に臨めば入れる大学はいくらでもある。少子化による大学入学の易化、推薦入学枠の拡大、AO入試の流行が高校生中間層の学力低下をますます助長している。

今の状況は教員と生徒が脚を引っ張りあいながら学習レベルを下げている。そうではなく学校の外側に一定水準の壁を設けて、それを越えるべく教員と生徒が目標に向かって共に努力する姿こそ望ましいのではないか。その壁として「高校能力検定試験」を導入したらどうか。

3 受験体制と人間性

 世の中の声として「今の受験体制では人間としての優しさ喜び悲しみ怒りに共感できる感性は育たない」あるいは「知育偏重や暗記中心の勉強が人間性をスポイルした」という声がある。しかし果たして「受験勉強して知識を身に付けること」と「人間としての感性を磨くこと」は相反する事なのだろうか。反すると思い込んでいる人達に高校の次の様な現状もあることを知って欲しい。

 例えば週末にいくつかの高校(なるべく地方の進学校と底辺校を入れる)へ行ってみたとする。上記の主張をする人達は、進学校の生徒たちは部活動などやらずに家や塾で勉強していて、底辺校では受験の重圧が無いから部活動その他で高校生活をのびのび楽しんでいるとでも思っているのかも知れない。実情は全く逆である。つまり大半の進学高の生徒達は教科学習以外のスポーツ、文化活動、生徒会活動等もエネルギッシュにこなしているのだ。逆に底辺校では校舎、グランド、体育館に生徒が疎らでほとんど見あたらない。それらの高校で例えばサッカー専門の体育教師が日曜日にグランドに出てきても、生徒は4〜5名しか集まらず練習にならない、などということは日常茶飯事である。生徒達は何処にいるかというと、かなりの生徒がアルバイトである。そして稼いだお金は携帯電話代、衣服代、飲食代等に消える。中には授業料や家計の助けとして頑張っている生徒も少数いるが、ほとんどの場合放課後や週末の過ごし方はアルバイト、友人との飲食、カラオケ、パチンコ等のギャンブル、そして場合によってはお酒とタバコ付きのこともある。

 マスメディアの関係者そして世間は、あたかも過酷な受験体制や偏差値教育が、学力はあるが人間性の低い層を生み出したと判断している様である。しかし、受験に対するプレッシャーを減らせばおのずから人間性がアップする、との論理的な誤解による思い込みが、現在の「学力低下」を招いた側面があると思う。教養と人間性の相関関係はあるかも知れないが、学力と人間性は比例も反比例もしないはずである。
 学力については計る物差しがあるから良し悪しは確かめられる。一方人間性なるものは一つのきっかけでどんな風にも変わる。時間をかけて明確な目標のもと基礎力を積み上げていくものでもない。従って学力と人間性を二律背反的に比較するものはもともと無理がある。もし人間性を計る物差しがあって、学力上位者と下位者を比較したら何ら差異は出てこないだろう。単純に言えば成績がよかろうが悪かろうが、人間的にいい者も悪い者もいるということだ。いろいろ議論し改革をしたが、残ったのは「学力低下」のみだった、というのが現在の特に後期中等教育の現状である。

人間性については確かに昨今、年長者やメディアによる「いまの若者は人間としての礼節やマナーが欠けている」という声は多い。それはいつの時代にも繰り返されてきたことだ。しかしだからと言って無視し受け流すことは学校現場では許されない。だから私は学校が人間教育をする必要がないと言っている訳ではない。特に自己中心で刹那的な考えに支配されている今の子供達に、「適切な職業感」や「人の為に役立つことが自分の喜びと感じる力」を付けさせることが急務であると思う。高校教育の中にそのためのプログラムを導入することが必要である。しかし後期中等教育ともなれば授業時間の大半を知識や技能の修得に向けるのが本来であり、その指導を通じて人間性教育をしていくのが自然の流れだろう。
しかし底辺校では授業そのものの成立が危ぶまれる為、知識や技能ばかりか人間性教育もおぼつかない有様である。その上、底辺校の生徒達は劣悪な家庭や地域環境、消費社会そして教育システムの犠牲になっている面が大きい。この子供達に学習目標を提示し挑戦のチャンスを与える為にも、「高校能力検定試験」の導入を提案する。そしてさらにこの試験は学力上位の子供達が、学問的にも余り意味の無い行き過ぎた受験勉強から解放され、人間性アップの為のそして将来の夢や職業感を豊かにする為の時間を確保することになることを次に示そう。

4 大学入試について

 約20年前、受験地獄批判をきっかけに始まった一芸入試、推薦入試枠の拡大、試験科目数の削減、そして昨今流行りのAO入試は、生徒に学力よりも個性、意欲、多様性等を期待した制度だった。その結果どんな状況をもたらしたかは周知の事実である。大学側がレベル維持のため多くの受験生を集めたい、そして私学は経営面で受験料を多く稼ぎたいという目標の為、様々改革してきたことが、自らの首を絞めてしまったことにようやく気づき始めたところではないか。分数の出来ない大学生やアルファベットの書けない大学生が話題に上り、大学教員から受験生全員に学力試験を課すべきだ、という声が出始めていることがそのことを物語っている。

 一方高校生の実態はと言うと、中堅から下位の高校に於いてはかなりの数の生徒が推薦入試やAO入試、つまり学科試験を課されない入試で大学に入学している。私の前任校では52名の大学合格者の内、学科試験を受ける所謂一般入試で合格した生徒は2名であった。本来推薦入試やAO入試は在学中に学校生活を真面目に送った成績上位者や特別活動で顕著な活躍をした者が対象のはずであった。しかし今や一般入試で合格出来そうもない学力不足の者が受ける試験になった。
 また進学校で推薦を希望する者は、試験範囲が狭く暗記中心の定期テストに強く、内申点がよくて、一般入試試験に自信の無い者が受ける傾向にある。結局知育偏重を否定するために設けた推薦入試によって、暗記に強い生徒を選抜する結果になっている。
 
 次に入試問題の作成について述べたい。私は数学の教員なので数学を例にする。高校数学の頂点つまり生徒に取って最も難しい分野は微分積分である。そしてこの分野は数学ではもはや古典といってもよく、200年前にすでにほぼ完成していた分野である。すると問題作成に関しては、目新しい概念を使わず限られた範囲内でこねくり回して難問を作ることになる。すると受験生はその問題の解法パターンをただ暗記し、繰り返し解いて解法を身に付けることになる。そしてそのテクニックは大学に入ってからあまり使われることは無い。ある大学の先生が「受験数学は暗記科目である」と言った所以である。こういった問題のお陰で難関校の受験生は莫大な勉強時間を取られているし、予備校や塾の存在意義がある訳だ。
また最近の話題として入試問題の作成を予備校に依頼するという話があった。各大学が毎年限られた範囲で問題を作成するとなると、重複を避ける為にも大変な労力が必要な訳で仕方ない面もあるだろう。それにすべての大学に全科目の専門家がいる訳ではない。場合によっては専門外の人が問題を作ったのではないかと疑わしいものもある。ある理工系のさして難関でもなさそうな大学で受験生の誰も解けない様な数学の問題が出されていた。出題者が受験生の実力を見誤っているのか、それとも見栄を張っているのかは分からない。 

 いずれにしても現状では奇問、愚問、悪問が出されることは避けられない。そして受験シーズンには出題ミスの記事が毎年のように新聞紙上を賑わしている。一方数ある大学の中には、高校の教育内容をよい意味で変革する様な良問を出すところもある。これだけ各大学がエネルギーを注いでいるのだから、全国から英知を集めれば良問の全国統一試験を数種類作る事は可能なはずである。それを「高校能力検定試験」としたらどうだろうか。そうすれば現在の学力上位層には人との競争ではない明確な学習目標ができ、これまでこねくり回した難問を解くために使っていた余分な時間を、人間性を磨き、適正な職業観を身に付け、生きる力の養成等に当てることが可能になる。

5 夢と目標について

 日本は今不況が長引き先行き不透明な時代であり夢を持ちにくい社会と言われる。そしてまた雇用形態も変わり年功序列は壊れつつあり職業の流動化も進んでいる。企業は余裕がなく新卒者を採用して教育する手間と時間を省き、即戦力を持ったものを採用する傾向になった。この波をもろに受けているのが高校、大学の新卒者のうち特に資格やスキルを持たないものや低学力層である。彼らの多くはフリーターになる。従って学力低下問題はフリーター問題とも関連している。このまま不況が長引き、市場経済が進み、自己責任を迫る社会が実現すれば、ますます勝ち組と負け組に分かれ社会の階層化が進行するだろう。上に述べたようにすでに子供の世界ではかなり階層化が進行していると思ってよい。日本では既に階層化が進んでいる事を何人かの社会学者は指摘し始めているが、まだ社会全体の認識までには至っていないようだ。

 これまで日本は結果としての平等を求め過ぎたと思われる。教育の中でその象徴的な話題は徒競走で順位を付けないことだ。このことのおかしさは誰でも感じることであり確かにナンセンスである。学力についても結果平等はあり得ない。しかし偏差値は目の敵にされ習熟度別クラス編成は反対が多かった。そして公立高校の学校間格差は輪切り状態で存在するにもかかわらず、人々は表向きなるべく触れない様にしてきた。そして地域社会で「お宅のお子さんはどこの高校へ行っているの?」と直接聴くことはタブーである。何故ならその答えで相手が輪切りのどの辺に属するかがある程度分かってしまうからだ。それほど人々は建前では平等を求めても本音では差異に敏感である。
 最近は教育行政から中高一貫校やスーパーハイスクール構想などが打ち出され、現場からは習熟度別クラス編成の有効性を認める声が上がってきて、世の中が差異は差異として容認する傾向にあると言える。しかしだからといって行政が学力上位層つまりエリート養成には熱心で、下位層はそれなりの教育環境を与えればよい、と考えているとしたら、日本社会の階層はますます上下の幅が広がり固定化してしまう可能性が高まる。
本来教育システムが持つべき役割は、すべての人々に教育を受けるチャンスを平等に与えること、つまり機会平等を実現することではないか。2章に述べた様に現在の中堅から下位の高校生は、上位校の高校生に比べて決して機会平等とは言えない状況である。この生徒達にいかにしたら自分のいる階層から這い出し飛躍するチャンスを与えられるかが教育行政の課題なのではないか。

 村上龍氏の「13歳のハローワーク」という職業紹介の本が売れている。氏は以前から継続して教育問題について積極的に発言している文化人である。彼は「成熟社会を迎えて子供たちが未来を描きにくくなっている。社会では勝ち組と負け組に分かれつつある。フリーターに未来はないし、真の実力を持った者が勝ち組になれると言われても、どうすれば勝ち組になれるかという情報もない。結局一人一人の子供が自分の好きな仕事を見つけ、その仕事を楽しんで充実した人生を送ることが勝ち組になることだ。しかし今の社会は、子供達に職業に関する目標や夢を持てと言ってもそのための子供達に対するアナウンスが不足している」というような主張をしてきた。その帰結が今度の「13歳のハローワーク」なのだと思う。
 この本を購入しているのは決して13歳の中学生本人ではないだろう。多分中学生や高校生を持つ家庭の親や親戚そして教育関係者が多いのだと思う。それほどこの本に対する社会のニーズがあったということは、逆に言えば村上氏の言うようにこういった情報のアナウンスが不足していたことになる。親向けには塾・予備校・中間業者から執拗なほど勧誘や印刷物が家に送られてくる。しかしそれらは主に高校・大学・専門学校の断片的な情報でその上宣伝臭が強すぎる。学校では生徒向けに進路指導・総合学習等で、徐々に職業教育は進められてはいるがまだ不十分である。

 いずれにしても学校としては子供達が将来どんな職業を目指すか、職業の人生に於ける意味とは等の職業教育プログラムを早急に実施する必要がある。そしてその職に就くためには在学中にどんな学力が必要かを明示しなければならない。子供達を学習させるには、挑戦すべき明確な壁を示してやる必要がある。そのための学習目標として「高校能力検定試験」を位置付けたらどうか。そして例えばAという職業に就くためには高卒と検定試験のXレベルが必要、Bという職業に就くためには大卒と検定試験のZレベルが必要と言ったような設定をして、その情報を早い時期にアナウンスしたらどうだろうか。

6 卒業資格

 「卒業」という概念は日本ではその学校で何をしたかという中身より、在籍したという形のことになっているようだ。つまり国会議員や有名人に関してよく話題になる学歴詐称疑惑に関して言えば、日本では一定年数の在籍を「卒業」と言ってしまう傾向があるのに対して、外国ではどんな単位や資格を取ったかを重視している。そこに行き違いや思い違い生じる余地があるのだと思われる。
 またどちらかというと難関の高校や大学の場合、そこの入学試験を突破したこと、そして中身はどうあれ在籍したことに価値が置かれることが多い。つまり入学の段階で同世代間の競争に勝ったのだから優秀であるという訳だ。企業や役所で「・・・大学卒」の派閥が勢力を持ったり、ある地方では地元の名門「・・・高校卒」が商工会の主流を占め、コネや派閥が生まれて地方特有の閉鎖社会を作っているという現状もあると聞く。

また2章で述べたような高校の現状からすれば、社会的には同じ「高卒」の資格でもいかに大きな違いがあるかが分かると思う。もしこれが運転免許や調理師免許の様なものだったらこれだけの差は容認されないだろう。
 いずれにしてもその大学や高校で、在学中に何を身に付けたかということが問われない社会になってしまっているのではないだろうか。
 これに対して高校や大学に在籍した結果どんな単位を何単位取得したか、どんな資格や検定に合格したか、どんな研究をしてどんな成果があったか等に社会が価値を置くようになればよい。つまり「学歴」より「学習歴」に人々の関心が向くようになって欲しいものだ。

 
7 暫定入学制度

 大学に関しては、今より卒業要件を厳しくして「大学のレジャーランド化」の汚名を返上すべきである。その代わりに入学条件をもっと緩和し、「暫定入学制度」を取り入れたらどうか。このことに関しては多摩大学学長グレゴリー・クラーク氏が以前から主張されていたことであるが、私なりに解釈、発展させると次のようにしたらよいと思う。まず大学は定員の2倍程度の学生を仮入学させ、専攻した学問の導入と基礎基本などのガイダンス的な講座を半年のプログラムとして実施する。学生は前期、後期どちらかまたは両方を受講できる。後期・前期ともプログラム終了時の試験結果を参考にして、その大学・学部を継続するか変更するかを学生と大学側の話し合いで決定する。また、後期については定員の2倍を満たしていない大学は再募集する。前期に専攻した大学の学部・学科を変更する学生は、後期再募集のあった他の大学に応募できる。受講しない半年はボランティア活動、海外旅行、NGO,NPO等に参加し、その活動の報告書を大学に提出する。

この制度は一度の入試で人間の一生を大きく左右している現在の状況を変えることが出来る。また、自分の選んだ方向が本当に自分に合った道なのか、自分の好きな分野なのかを一度検証することができ、やり直し可能な制度でもある。
その上受験勉強という閉鎖的な学習の為1年以上を空しく過ごしている浪人生を救うことになるし、19歳前後の多感な時期の若者が社会や世界への関心を持ち、未来への夢を拡張することの出来る制度でもある。予備校等の受験産業からは批判があるかも知れない。しかし制度が変わればどこかに利益、不利益が出るのは世の常である。予備校の多くの先生はマスターやドクターと聞く。かれらのマンパワーは大学で生かした方がよい。先頃予備校の先生である山本義隆氏が執筆した「磁力と重力の発見」が、大佛次郎賞等いくつかの賞を受賞し本が売れている。このような先生には、予備校での限られた範囲の受験物理より、大学で学問への導入や本格的な学問を教えていただいた方が、よほど社会的な価値があると思う。

 最近ある二浪した女子生徒の話を聞いた。彼女は大学で英語を勉強したいという。過去2回の受験では点数が足りず自分の希望する大学に受け入れてもらえなかった。そして3回目に挑戦したが国語の試験で失敗してまたも希望が叶いそうにない。彼女が挑戦している壁は他の受験生の動向に左右され相対的で流動的だ。受験勉強の中身は範囲が限定されている。しかし自分が一体どこまでやればよいのか堂々巡りで不安だ。人生に於ける試練としては貴重な経験ではあるが、空しい2年間だったと訴えてきた。もし大学入試の学力を測る手段として、レベルが明確で人との競争でない「高校能力検定試験」を導入し、大学が暫定入学制度を取り入れていれば、彼女の2年間は全く違ったものになったに違いない。英語に関する興味が他のものに変わったかも知れないし、彼女の夢は様々な刺激を受けてもっと具体的なものになっていただろう。
とにかくこの「暫定入学制度」は大学浪人を無くし、19歳前後の若者が今以上に視野を広げ、学問や職業への夢を大きく広げる契機になるに違いない。


8 高校能力検定試験

次の様な4種類の検定試験の導入を提案する。
 T:現在の就職試験や専門学校の入試で使われている一般常識問題。
U:現在の大学入学資格検定と同じレベルの問題。
V:現在のセンターテストと同じレベルの問題。
W:現在の国立大学二次試験と同じレベルの問題。


(ア) 問題作成について
 現在の大学入試センターを中心に、高校、予備校関係者の英知を集めれば、マンパワーは十分と考える。それに現在各大学で実施している個々の一般入試学力テストを廃止すれば、大学教員はこれまでの入試に関わるエネルギーを日々の教育活動に振り向けることができる。また奇問、愚問、悪問、出題ミスが減る。

(イ) 試験の実施について
年2回実施する。7月と1月の土、日が望ましい。現在のセンターテストの実施方法を踏襲し、会場は全国の高校を使う。実施会場は高校単位ではなく住所を基準に振り分ける。試験監督等は退職教員、ボランティア、大学生アルバイトを募る。

(ウ) 受検対象
 高校生年代を基本とするが特に年齢制限を設けない。つまり誰でも受検の資格がある。受験者は自分の希望する大学・学部・資格等に必要なレベルの試験・科目を選択して受ける。どの種類を何回受けてもかまわない。

(エ) 検定の適用
 「大学入学資格試験」と見なし、どのレベルを要求するかは各大学・学部にゆだねる。例えばA大学はU、B大学・経済学部はVの英語、国語、政経、C大学はUとWの数学といった様に指定し、その情報をあらかじめ発表する。国公私立のすべての大学がこの検定試験をクリアした者に受験資格を与える。このときは検定をクリアしたかどうかだけが問題で点数は参考にしない。そして各大学独自に実施するのは論文、面接、実技等で学科試験は課さない。
 現在私立大学や短大がセンターテスト利用入試に参加しているのと同様に、短大、専門学校、企業等もこの検定を利用可能にする。その他、不登校生や年長者で高卒の資格の無い者への対応として、各種検定や資格試験の受験資格が、現在「高卒」となっている場合、T、U等への変更を各機関に検討してもらう。

(オ) 「高卒」資格について
 この提案を「高校能力検定試験」として「高校卒業能力検定試験」の様に『卒業』の文字を入れなかったのは、次の様な批判が出る可能性があるからである。つまりこの検定試験をクリアすれば高校卒業と見なすことになると、現在高校生活で身につけている、学業知識以外の社会性、協調性、忍耐力、意欲、体力、人間としての感性等の否定に繋がる。またもし在校の途中でこの試験をクリアした場合、その生徒がその後在校している意味を失い学校が秩序を失う可能性がある。
「卒業」に関して日本ではこれまで再三述べて来たとおり、在籍することに意味があり、特に高校では学力に関してはほとんど下限がない状態である。これを一気に変更し条件を厳しくすると落第者が急増し社会がまだ容認しないだろう。従って学力と卒業は現在の段階では分けざるを得ない。それに高卒で就職する場合、企業は「学力」よりむしろ「卒業」を期待する場合が多い。それは積極性、協調性等人物本位で採用したいからだ。そして逆に高卒後上級学校に進む場合、やはり受け入れ側としては一定の学力を期待するのは当然で、今はそれが期待出来ないからこそ「学力低下」が問題になっている訳である。
だからこの「高校能力検定試験」には現在の大検、センターテスト、各大学の一般入試テストの機能を持たせればよい。そして高校生にはやはり「卒業」を目標にさせ、在学中あるいは卒業後「高校能力検定試験」に挑戦させたらいかがだろうか。
一方不登校生や高卒の資格を取らないまま19歳以上になってしまった年長者への救済措置として「高校能力検定試験」を位置付けたらどうか。この検定をクリアすることによって大学進学や何らかの資格取得を目指すことが出来れば、リターンマッチ可能で、これまでより機会平等な教育システムを作ることが出来るだろう。
 いずれにしても「高校能力検定試験」は後期中等教育学力向上対策としての強力なインセンティブになりうると考える。

          平成16年2月  浦和高校定時制教諭 萩原紀男 



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