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不登校・引きこもり・少年事件から見えること


2000/08
講演:不登校・引きこもり・少年事件から見えること

     登校拒否文化医学研究所所長 高橋 良臣

■14歳〜17歳の危機

 今日私に与えられた課題は主に「引きこもり」ということなのでしょうが、登校拒否、不登校、家庭内暴力事件の問題ということも含めて、トータルな面で話をさせていただきたいと思います。

 特に17歳の事件が頻発して、マスコミからも随分コメントを求められました。その時に、私は別に17歳だけが問題じゃない。14〜15歳が大変なんだよという話をしました。
 14歳あるいは15歳から年代的には家庭内暴力の時期である。登校拒否・不登校の出現について、今から20数年前に豊田財団の研究助成をいただきまして、全国調査をさせてもらいました。アンケート方式でやらせていただきましたので、有効回答が1000件送りまして320〜330ありまして、その時に二つの山が出ました。最初の不登校というのでは、中学2年生と高校2年生が大変多かったのです。それぞれに家庭内暴力を含んでの不登校が多いというのが大変印象的でした。

 14歳あるいは15歳というのは子ども社会からの出口だ。今まで子どもで済まされていたものが、子どもではなく、そろそろ子ども社会からお別れをする、かといってまだまだ大人の社会を見ると、かなり先である、という時代です。
 で、学校でやることも今までの小学校と違って急に難しくなる。ノルマも多くなってくる。そんな違いを子どもたちは迎えるわけです。ストレスをかなり強くためる時期でもあります。従って、小学校時代にいろいろな心の負担を十分に解消していなかったお子さんは中学校に入ってすぐに不登校状態に陥っても不思議ではないような状態が当時はありました。

 当初、私が不登校のお子さんに関わった頃は家庭の親のしつけの問題だということをしきりに言っておりました。私が見ていると、家庭のお父さんお母さんはとてもよく子どもに関わっているので、そうではないだろうと。むしろ学校の問題ではないかということを最初は考えました。で、学校の教師のところへ行くと「学校へ来ない奴が悪いんだ」という言い方を平気でしておりました。でも、先生にぶん殴られて来なくなったんだから先生も謝らなきゃ」と。私も結構気の強い牧師でしたから、強引に謝らせたこともありました。それでも、子どもは行けないんですね。そして、「やっぱり家庭のしつけが悪いじゃないか」みたいなことを言うんですね。当時、「先生が謝ってくれたんだから行けばいいじゃないか」と言っても、体が固まってしまって動かない。そういうことがよく理解出来なかった。最初の頃ですよ。27〜28年前。そういうことがよく分からなくていろいろ考えました。で、調査研究が必要だということで、申請したらいただけて、6年間にわたって調査研究させていただいたわけですよ。

 そんなところで、どうも学校にも問題ありそうだし、家庭にも問題ありそうだし、社会にも問題ありそうだし、子どもと生活していると、もっと子どもの体にもおかしいなと感じるものがありました。

■遊んでいない子どもたち

 今、ニコラの会の「ニコラ少年」のことが出たんですが、まずほとんどのお子さんが遊んでいないんです。十分に体を動かしていないんです。細いか太いかのどちらかなんですね。いわゆるローレル指数の平均値に当てはまるようなお子さんは当時は少なかった。
 今も私は22〜23人の人たちと一緒に、山梨県の中富町にある大須成学園というところで生活体験会をしておりますが、子どもだけではないんです、長期引きこもりの人もきていますから。

 一昨日午前中、川遊びをしたんです。大須成学園の建物の脇にきれいな清流が流れているんです。そこにはアユもいればヤマメもいればイワナもいる。私たちが洗剤やら農薬を使わないようにしましょうとお願いして歩いて、ほんとに源氏蛍が復活したところなんですね。蛍の幼虫が五月雨が降るような日にはい上って行って、岸辺の水辺から2mくらいのところに穴を掘ってもぐるというのを見たことがありますか。第一、蛍を見たことがある方も少ないかも知れませんね、埼玉県でも。光りながら行くんですよ。幻想的です。地をはう虫が光るんですよ。何とも言えない。不気味といえば不気味なんですが、たくさん出てきますから。結構かわいいんですね。もちろん、懐中電灯なんかで照らしたら駄目ですよ。それが3週間〜4週間後に羽化して、ばーっと成虫になって飛んでくるんですね。もう見事です。
 で、「陶芸と蛍を訪ねる体験会」というのをやりました。その時に、小学生のお母さんが3人ほど来ていました。中学生以上は子どもだけという条件でやっているんですが。泣くんですよ、蛍を見て。「こんなに素晴らしいの見たことない」って。私も毎年毎年感激しておりますけれど。

 その川で川遊びをするんです。「魚を捕ろう、カニを捕ろう」って。捕れないんですよね、子どもたちは。私は追いかけて行ってひょいとつかむ。「チェリーさん、すげえ」「こんなの当たり前じゃねえか」出来ないんです、彼は。で、転んでびしょびしょになるんです。ついでだから、私がバケツで水をじゃっとかけてあげて大騒ぎになるんですけれども。結局子どもは魚を一匹も捕まえられなくて、沢ガニを3匹捕まえただけ。で、「この沢ガニどうする? 唐揚げにして食べよう」と言うと、「かわいそうだよ」「じゃあ、また逃がしてあげよう」「それがいい」と。優しい子たちです。

 でも、彼らの体力のなさにびっくりしました。午前中ちょこっと沢に入って、1、2時間大騒ぎしただけで、もうくたびれてしまって昼寝ですね、全員。午後は「山を歩いて食べることが出来る草を集めて来よう。毒草との見分け方を教えるからやろう」とやったんですけれども、私の歩き方が早いと言って文句を言うんですね。「もっとゆっくり歩けよ、くそチェリー」って。
 私、「チェリーさん」って呼ばれているんです。かわいいから。(笑い)そんなはずは絶対にないんですが。不登校の子たちと生活体験会をしている時に、私はなぜか「錯乱した坊主だ」と思われまして「サクランボウ」ということで「チェリー」と呼ばれています。坊主と言っても西洋坊主で、牧師でもそんな変な坊主はめったにいないらしくて、「サクランボウ」になってしまったみたいです。

 不登校のお子さんたちと生活体験をしておりますと、まず体力がないということに気がつきます。それは当然です。家からほとんど出ませんから。やっていることは、ゲーム、マンガ、テレビです。これはゲーム、マンガ、テレビが悪いという意味じゃなくて、そうなっていく背景があります。不登校の子どもたちは対人関係でたいがい嫌な思いをしております。そうすると、人間性に関係のあるようなものを避けるわけです。ですから、テレビ、マンガ、ゲームに行くわけです。女の子ならクッキング、人形遊び、縫い物、パッチワークに行くわけです。それはそれで納得出来ますし、そのことを責めても始まらないわけです。人間性、つまり対象となり関わる私たちの側が悪いわけですね。教師が悪い、友だちが悪いわけです。彼らのそういう気持ちを理解しないで滅茶苦茶やってしまっているわけですね。はっきり言えば、虐待、心の傷になることをやってしまっているわけです。

■ホルモンバランスが崩れている

 問題は、なぜか極端にはしゃぎ過ぎ、極端に落ち込むというところに注目しました。調査研究の時にいろいろ調べてみましたら、ホルモンのバランスが非常に悪いということが分かりました。特に成長ホルモン、あるいは副腎皮質ホルモンについて調べたのですが、このバランスがかなり崩れている。

 大体2週間くらい生活体験をして、体を動かして健全に動いていくと、対人関係もストレスを減らしていくとすっと元に戻るんですね。2週間後にまた血液検査をすると、日内変動と言うんですけれども、ホルモンのバランスはまた元に戻っています。すると、激しかった家庭内暴力のお子さんであっても、穏やかになっていわゆる言葉で話が出きるようになっていきます。
 どういうことかと言いますと、14歳というのは性成長が最も激しく始まっている時期です。男の子であれば男性ホルモン、女の子であれば女性ホルモンが中心に、急激に分泌される時期です。もちろん、女の子であっても男性ホルモン、男の子であっても女性ホルモンはそれぞれに少しずつは出ていますが。男性ホルモンというのは、一般的に攻撃的衝動的な情動を引き起こします。興奮機能は強いものです。

 最近、学級崩壊など男の子でも女の子でもなかなか教室で落ち着いて座っていない傾向がありますが、これについては、最近の学会での報告によると、どうも環境ホルモンの影響によるのではないかと。環境ホルモンというのはもともと女性ホルモンに似たホルモンなんですね。その女性ホルモンに似たホルモンをお母さんが摂取していた場合 ― アメリカの報告では大量に摂取していたということになりますが ― 胎盤透過性ですから、赤ちゃんが出来る時に赤ちゃんの脳に対して、ニセの女性ホルモンなんですが、赤ちゃんの体には女性ホルモンがたくさんあるから後々そんなに女性ホルモンを分泌しないでいいですよというニセの情報が作られてしまうんです。

 生まれて来て、さあ性成長を遂げていくという時に、女性ホルモンではなく男性ホルモンの分泌が盛んになってしまうんです、男の子にしろ女の子にしろ。そうすると、衝動的である攻撃的である興奮しやすいという状態に陥る。つまり、「キレやすくなる」わけです。最近のお子さんが、落ち着かない、すぐに怒り出す ― この辺りでだいたい皆さん見当がつくと思います。が、これはお母さんが意図的に送ったものではないわけです。社会問題の一つなんですが、かなり深刻な影響を与えていると思うんですよ。この性ホルモンのアンバランスというものは。
 
■生活体験を通して分かること

 私が子どもたちと生活体験を一緒にする理由は、不登校のお子さんというのは何が何だかよく分からないから、カウンセリングルームで1対1の1時間の面接をしたって分からないんですよ、本当のことを言えば。生活を一緒にすればよく分かるんです。いろいろな個人的な癖も、共通した状態もよく分かるんです。その生活体験の中で、どうも変だということで調査研究をお願いすると、大体5年か10年後には実現して行くので、これも前から私は言っていたんですが、実際に私たちが調査研究した後、東京女子医大の小児科の教室で似たような研究をして、私たちと似たようなデータを出していた。今回の場合も多分日本大学の医学部でそういう研究をしてくださるのではないかと思うんですね。

 そういうように非常に衝動的な興奮機能が強まる時期でもある。と同時に、視床下部という脳の奥にある脳の中枢ですけれども、そこがやはり興奮機能を司るところなんですが、たいへん発達する時期でもある。この両方の条件によって、生理的に興奮しやすくなる時期なんだ、攻撃性や衝動性が強まる時期なんだということです。男の子の場合も女の子の場合も条件は似たり寄ったり。昔、女の子はやさしいと幻想を抱いていました。今は違いますよ。

 私のメンタルフレンド・ボランティア研修会で飲むんです。「乾杯!」と言って勢い良くグラスを持ち上げるのは女の子です。男子の場合には「乾杯」と言って小指が立っています。かわいいなと思いますね、あれを見ていると。どこでどう違っちゃったのかなと思いますね。大須成学園で、私は年寄りですから朝早く目が覚めてしまう。仕方がないから朝ご飯を作っているんですね。「オッス」と入ってくるのはたいがい女子学生ですね。「おはようごさいます」と入ってくるのは男子学生ですよね。で、料理が上手なのは男子学生。「これ、どうやってぶった切るんですか」って聞くのは女子学生。「お前ら逆になれば良かったね」と。「それはセクハラだア」って怒られますけれども、そんなことがあります。
 
■教職員に免許更新制度を

 実際この時期、そんなに興奮機能が高まると抑制機能がないと大変なことになるじゃないかと。私たちの抑制機能は大脳の前頭葉にあるんですね。大脳の抑制機能が「ニコラくん」のようにうまく取れていればいいんですけど、そうでない。つまり、記憶とか計算機能ばかり使っているような大脳の前頭葉であれば、情緒の変化に対する抑制機能が大変弱くなってしまう。これが今の教育の大課題です。

 これについては、気がついていない教師が大変多いんです。点数で競争させることばかりやって、子どもたちをコントロールしようとします。別に教師に恨みつらみがあるわけじゃない。立派な教師がたくさんいることを前提の上でお話を聞いていただかなければなりません。立派な教師がたくさんいる中でも、とんでもない教師がいることも皆さん体験済みではなかろうかと思います。

 私は18年程前にある政策雑誌に頼まれて、10年間ほど年に4回、教育問題について原稿を書いていました。その中で教職員の免許の書き換え制度を作れと書いたんです。
 皆さん、車の運転免許を持っていますよね。私はゴールドカードなので5年に1回なんです。そうでない場合には3年に1回ですか、書き換えです。それから臨床心理士の資格も持っています。これもやはり5年に1回書き換えで、5年間に15ポイント研修を受けないと書き換えが出来ないんです。更新が出来ないんです。
 それとは関係なく、当時私はあんまりにもひどい教師が一度教師をするとそのままずうっと教師でいることに腹が立ちまして、「とにかく教師の免許の書き換え制度を作れ」と、ある国会議員さんに言ったことがあります。その方は今回落選してしまったんですけれどね。今回、森総理大臣の私的諮問機関であるところのあるお偉いさんにレクチャーで直接、こういう考えを是非実現してくださいと言ったら、その方は強力に言って下さったようで、ついこの間そういう意見が出ましたね。あきらめずに粘っていけば、なんとか希望は叶えられるということです。

 皆さん、当事者はいま闇のどん底にいるかもしれません。こんなところで聖書の言葉を使うのは良くないかもしれませんけれど、キリスト教の中で、「いま苦しんでいる人は幸いだよ」「いま悩んでいる人もいいんだ、幸せなんだ、いまどん底にいる人は幸せだ」と言うんですね。「そんな馬鹿なことを言うな、俺は幸せになって、豊かになっていたい」というんだけれども、そうじゃない。「貧しいから、下がないから、どん底になっていれば何も怖いことはない、幸せしか見えないよ」という意見です。

 さっき、闇夜で小さな光を見て感激して泣いたお母さんがいたという話をしました。本当にそのお母さんの場合も、教師からひどいことを言われているんです。「そんな教師、やめさせてしまえ」と指導主事に言いましたけれども。
 結構、こういう自由業というのは怖い者がないので、何でも言ってしまうので、いい面と悪い面とがありますが、どうぞご勘弁願いたいと思います。

■暴力の陰にあるもの

 要するに、14歳から17歳というのは、そういう意味で大変攻撃的であるわけなんですけれども、14歳の場合には親のせいにしがちです。親のせいにするんですけれども、親のせいにするというのは、幼児期に依存できたからです。お父さんではなくお母さんに依存できた。不快なものを快適に、つらいことを楽しく、癒してくれたりあやしてくれたりしてくれたのはお母さんです。ですから、思春期になってつらいことがあった時に、お母さんにもう1回求めていきます。依存します。残念ですが、お父さんではないわけです。
 その14歳の衝動をもって依存するわけですから、かなり過激な要求になるわけです。それが家庭内暴力です。目がつり上がってきーっとなっている子どもに対して、お母さんに「分かってやれ」と言っても、なかなかこれは出来ないことですよね。本当に難しいことだと思います。

 でも、お父さんもそうですが、暴力を否定するだけでは駄目で、暴力が言わんとしていることを理解してあげることが大切ではないかと思います。つまり、暴力というのはいたわって欲しい気持ち、慰めて欲しい気持ち、あやして欲しい気持ちが隠されているんです。そういう暴力という現象の背景には、そういう感情が隠されているということです。言葉でもそうですけれども、表出された言葉の背後には必ず何らかの感情が隠されているということです。

■17歳の社会的攻撃性

 問題の17歳になるんですけれども、社会的な衝動的な攻撃です。実はこの時期から長期引きこもりの兆しも見えてまいります。私が現在関わるお子さんのほとんどはこの17、18歳を境に長期引きこもりの方に入っていくわけです。
 17、18歳は凶悪な状態に陥るか長期引きこもりに入っていくか境目になるわけですけれども、これはもうちょっと先に行くと大人の社会が見えてきます。

 最近のお子さんたちにも、17、18歳のカウンセリングの時に、「将来、君何になりたい?」と言うと「何でもいいです」「特にありません」。「何かやりたいことは?」と言うと「別にこれといってありません」。「何が得意?」と言うと「何でもできます」。やりたいことがない、何をしたらいいか分からない、という状態が多いんです。
 私も大変びっくりするんですが、私のところにボランティアで来たいという人は、「何をやりたい?」と訊くと、「これといってありません」「言ってくだされば何でもやります」と言うんですよね。子どもと関わりたくて来るんだろうなと思って、「子どもと関わりたいんでしょ?」と言ったら「特にそういうことでもありません」。「お茶出しでもいいの?」と言ったら「言ってくださればやります」。「コンピュータでもいいの?」と言ったら「それでも構いません」。「あの、掃除でもいいの?」と言ったら「はい、勿論です」と。何なんだろうなと思いますね。

 その代表的なことが、実は皆さんのお子さんの口から出てくるんですよ。あまり皆さん気が付いていないんですが、お母さん方はたいがい1度や2度は聞いていると思うんです。「僕はこれから先どうなるんだろう…」ということです。でも、「なるようになろう」ということは、自分の主体性がはっきり見えていないんですよね。「どうしたいの?」と僕たちは聞きたいわけです。でも、「どうなるんだろう」というのは流されていく、要するに自分のやりたい方向に向かっていくのではなく、その時代に流されていく可能性を示唆していると考えます。そういう時代なんですね、17歳、18歳というのは。

 そんな時に陥りやすい状態というのは、やはり衝動性が強いわけですけれども、17歳くらいで本当に最高潮の、男の人だったら男性、女の人だったら女性、それぞれ完成された男性、完成された女性に生理学的には成長しています。その時、衝動中枢と性ホルモンとの相乗効果と大脳機能の偏った成長で社会に向けられる攻撃性は自己抑制が利かないほどのかなり激しいものとなります。つまり、野生動物よりも激しい、知的動物としての衝動を示します。野生動物なら種の保存をどこかで優先させるのですが、人間の偏った知識による悪意や敵意や憎しみが相手を殺すまで衝動的攻撃を繰り返させるわけですね。同種殺をする動物になりさがる。

■精神科医の権威主義が招いたこと

 栃木県の会社員殺害事件、それからお母さんを金属バットで殴り殺した少年。それからバスジャックで刺してしまった少年のこと ― これについて私は精神科医の方に文句を言いたいのです。

 私はクリニックで思春期外来を担当しておりました。で、ひどい家庭内暴力のお子さんを入院させてくれというお母さんが、顔を真っ赤に腫れ上がらせて肋骨を2、3本折られたとか言って来ます。本当に入院させてあげたいんですよ。でも、仮にさせた場合、子どもはいつでも脱出します。脱出して何をするかというと、お母さんを殺しに行きます。
 ですから、私はお母さんに3週間ほど余裕をくれと、3回ほど子どもさんに面会させてくれと。「そんなこと言っても、子どもは来ません」と言うんですね。「だから、来る方法を教えるから」と。お母さんは「私はここに来ることも内緒で来ているんですよ」「そんなこと、もう今日帰ったらすぐ言いなさい。『実はね、今日、お母さん何か悪いことをしちゃったみたい。何が悪いことなのか分かんないから、病院に行って先生に聞いてきた。』と。『お母さん、それはひどいよ。それじゃあやっぱりね、子どもは切れるよ』って言われちゃった。『でも、子どもの話も聴かないと分かんないから、できたら子どもの話を正確に聞かせてくれればお母さんを治しやすい』って言ってください」って言うんです」

 来ます、子どもは。私に「あのくそババア、ああ言った、こう言った。俺の気持ちなんか分かってねえんだ、くそ」「君は悔しかったんだな、悲しかったんだな、、つらかったんだな。いて欲しい時にいなかったお母さんに対して、恨み持ったんだな。そういうのがお母さんに通じないんだね。君は、いつも通じない気持ちを感じてる?」「うん、感じてる」「腹立つ?」「うん、腹立つ」「腹立つ時どうする?」「本当は殴りたくないんだけど殴っちゃうんだ」「本当は殴りたくないの?」「どうしてもこれは癖なんだ」「癖じゃない、それは治るよ」「えっ、治るの?」「うん、治る」「かっとなってね、分かんなくなっちゃうんだ」「だから、かっとなって分かんなくなるような状態もね、きれいに治るんだよ」と言います。「ほんとかよ」「嘘言わないよ」

 2回目、3回目とそういう話をしていきます。で、3回目くらいに「ね、きみね、本当に治す気ある?」「ある」「じゃあ、治そうか」「治す方法は?」「君がずーっとこのまま1年か2年面接を続ける方法が一つ。もう一つは3ヶ月くらい入院してそこの先生と仲良くやるという方法が一つ。もう一つは僕が知っている病院に入院して僕が1週間に1回会いに行くから。そこでいいと言われるまで入院する。僕は3番目の方法が君とずっと会えるから嬉しいんだけど、どれがいい」「その3番目の方法がいい」と言うんですね。「何年もかかるのは嫌だ。3番目の方法でやってくれ」「じゃあ、そうしよう」ということでやります。

 アカウンタビリティと言います。カウンセリングマインドというのは皆さんご存知だと思いますけれど、もっと積極的に、「それを治すにはこういう方法とこういう方法とこういう方法があるよ。こういう方法だったらこういメリットがある、デメリットはこうだよ」というのを全部教えていくわけです。で、「自分にはこういう方法ができる。君はどれでも好きな方法を選んでいいよ」と。で、彼が選んだ方法を、自分でやりたいと思ったことをやっていくわけです。「やりたい」、つまり「やらされる」「入院させられる」ではなくて、自分で「入院して治したい」という希望を叶えてあげるだけですね。

 今回西鉄のバスジャックをした少年に関して言えば、そういう手順を省いていきなり権威権力をもって入院させてしまっているんです。ああなっても仕方がないですよ。だから、親とか精神科医にすごい疑問を持っております。直接会っていないからまだ疑問の程度でしかありませんが、やり方が間違っていたと思います。なぜマスコミの人がああいう人を度々引っぱり出すのか理解出来ない。彼がそういう権威主義者だったらとんでもない。子どもを犠牲にしてしまうやり方だろうと私は思いますね。大失敗です。子どもを追いつめてしまったと思っています。17歳ならもともとこういう状態にあるということは精神科医なら分かっているはずです。カウンセラーの私でさえ分かっているんですからね。

■小児性全能感と存在の空虚感

 不登校のお子さんと生活していて、たいへん幼さと未熟な部分に気が付きます。純粋といえば純粋なんですが、やはり幼い感じがします。これは小児性全能感によって引き起こされる問題です。幼少児全能感ってあまり聞いたことがないと思いますが、まず何かやって誉められると、何でも出来るような気がします。

 今回の大須成学園の夏の山村体験会では、陶芸をみんなでやりました。陶芸家を2人呼んで、みんなで作ったんです。その時に幼稚園児が3人いました。すごいですね、「出来た、出来た、きゃーっ」って、次々に作っちゃう。「わたし何でも出来る」「ぼく何でもできる」になっちゃうんですね。驚きましたね。何でもできるって、出来るわけないですよね。でも、何でも出来るような気持ちになっちゃうんですね。そして、プールで泳ぎました。ちょっと浮いて泳げたんです。そしたらもう50mでも100mでも泳げるような気持ちになっちゃうんですね。すごいなあと思いましたね。

 それがやがて人と比較して勝つことばかり望むようになってしまうことを小児性全能感の成れの果てと呼びます。その場合、人の気持ちを無視して自分が勝つことばかりに専心してしまうようになるわけです。行き過ぎると、必ず相手に勝たなければ自分の価値がなくなると錯覚する場合さえあるわけです。

 不登校のお子さんの中にこういう小児性全能感のような状態に陥ってしまったお子さんで、人と競争して勝たなければ気が済まなくなって、いわゆる世間で言うプライドの高いお子さんですね、ちょっとでもミスったり成績が落ちたり、弱点を見つけられ、周りからそう見られるともう絶対に学校に行かなくなっちゃったという場合もあります。また、長期引きこもりなんかもこの辺りから芽生えているんです。

 先ほど17歳辺りからも出るんだと言ったんですが、17歳ぐらいからその衝動が激しかった場合、その衝動を発散できない場合どうなるかというと、心が空虚感を感じる。虚しくなって、自分が生きている存在としても、自分自身であるという自己所属感、自分が自分であるという所属感が薄れてくるんですね。で、自分には価値がないという意識に支配されてしまうんです。

 価値がない人なんていないんですよ。何か価値があるんですから。存在としての価値は絶対誰にでもあるんです。どうかすると、日本という経済中心の社会では、不要な人間なんて考えちゃうんですね。「役立たず」なんて考えるんですが、仏教用語で「無用の用」というのがあるのはご存じですよね。役立たずはいないんだよ、存在そのものが大切なんだよと。禅宗では「存在」ということを非常に重視するんですが、全くその通りでしてね、大変重要な概念だと私は思っております。無用の用、役立たずはいないと。

 たとえば、私、役に立たない人間だと思われるかも知れないけれども、そうですね、大して役に立っていないんです。大酒飲みだし、大飯食いだし、一生懸命遊ぶことばかりやっているから、大人社会ではほんとに役に立っていない人間になりますけれども。たとえば私が私の家族から抜けたとしたら、家族はものすごく淋しくなると思います。「あのうるせえチェリーがいなくなった。どこに行っちまったんだろう」と気になって仕様がないと思います。今大須成学園では私がいなくなったということで、子どもたちはたぶん「どうしたんだろう」と気にしているはずなんです。どこに行くとは言ってこないで来ましたからね。急にいなくなるんです。「私、ちょっと仕事で抜けるから」って言うと、子どもが「俺も行きたい」なんて言っちゃうんで。まさか講演に子連れで行くわけにもいきませんので、黙って出てきたんですけれども。

 存在感、それがなくなってきます。そして、自分には価値がない、という意識に支配されてしまっています。そうなると、自分の行っている行為行動が自分自身が行っているという自覚を持たなくなってしまうんです。こうなると大変ですね。空しさでどこから社会参加の糸口に手を着けていけばいいか分からない状態に陥ってしまうようです。

 これは病気とは言えないんですが、懐疑現象の一種ですね。自分自身が自分の意識と一致していない状態ですね。その辺りが小児性の全能感と一緒になってしまって、大混乱を起こすわけです。17歳、18歳も過ぎて、自宅に長期引きこもりででんと構えているお子さんももちろん、お父さんお母さんの場合は、本当は自分はどうしたいかということを家族として作っていく、家族としてはどうしたいか、というようなことも含めて作っていくということを考えていっていただければなあと私は思っております。

■不用意な言葉が過剰反応を招く

 もう一つ、子どもたちの特徴なんですが、過剰適応というのがあるんです。ほとんどの不登校になるお子さんはだいたいこの過剰適応をしています。

 子どもに対して可愛いと思うのは当然の親心ですが、近頃そうでない親がいるということが分かってきました。子どもに毒を盛って保険金を取ってテレクラで遊ぼうなんてお母さんがいるなんてことが分かりましたけれども、親たちが可愛がり過ぎるとその子どもは自分だけが他の子どもたちよりは大切にされているというふうに感じるんですね。いつでもこのような状態でいるためにはどうしたらいいかということを考えるようになるんです。

 子どもが親たちからの愛を失わないためにどうしたらいいかと考える背景には、親たちの日常生活の中で子どもの側でふと親の愛を失うのではないかという不安になるような親の言動があったからなんですね。「そんなことは1度も言ったことはない」と言うかも知れませんが、子どもの繊細過敏な感受性から見たら、親の不用意な言葉、教師の不用意な言葉を含めてですが、一言、たとえばお兄ちゃんに向かって「あなたはこの家の跡取りなんだから頑張ってね」という話を弟が聞いたら、「俺はやっぱり大切ではないんだなあ」なんて思っちゃうわけなんですね。「氷川神社の鳥居の端で拾われてきたというのは本当の話なんだなあ」とか思っちゃうんです。
 あるいは、もっと可愛がってもらうためにはどうしようか、ということも考えますね。たいがい親が喜ぶようなことをしていればいいんだと気が付くわけです。で、自分が可愛がられ続けるためには、親が喜ぶようなことをしていなければならないと思う。本当はやりたくないことでも無理をして、しかも喜んでいるかのような振りをしてやってしまうんですね。

 学校でも同じです。教師に目を向けてもらうためには、教師が喜ぶようなことをしなければならないと思ってしまう。そういうふうなアプローチをする教師も中にはいるんですが、そうなると子どもは過剰適応せざるを得なくなる。少々すぼらでもいいから、「本当にあの先生って心が広くてとても温かい人だからヘマをやっても大丈夫」という気持ちにならせるような先生というのはとても賢いかなと私は思うんですよね。

■自己評価を低める子ども

 親が子どもを愛し、子どもが親から嫌われないように努力することは自然なことなんですが、親や教師が子どもの失敗や子どもの不始末や不出来に対して決定的な罰を与える怖れがある場合、子どもがそのような怖れを抱いている場合、子どもが親や教師の喜ぶようなことしかしなくなることは自明の理ですね。中には出来なかったことをすごい責める教師がいます。そして、直す、正すということばかりさせる教師がいます。そういうことばかりやっていると、子どもの方は自己評価がすごく低くなります。
 獲得する自己評価が低くなると、「自分は駄目な人間だ」「自分は欠点だらけだ」「何をやってもうまくいかない」と無気力になったり、やがては段々に人の欠点ばかりが目に付くようになります。自分の欠点を指摘されたように人の欠点ばかりが目に付くようになります。

 ですから、不登校のお子さんが家に引きこもっている時に、昔友だちだった人や好きだった先生が訪ねてきても、「実はああだったんだよ、あの先生ね、表と裏と違うんだよ」とかね、先生の欠点、親しかった友だちの欠点ばかりを指摘するようになるんです。逆に、欠点ばかりを言うお子さんをお抱えの人は、「もしかするとこの子は自己評価を低くし過ぎてやしないか」「自分は親としては注意をし過ぎてやしないか」あるいは、教師は「注意ばかりしてきたんじゃないか」「誉めることをほとんどしてないのじゃないか」そんなふうに考えてみてはどうでしょうか。

 やはり、外見で無理をしているように見えなければ、なんでも出来た子は「良い子」として評価してしまうんですよね。無理をしている部分を見抜ける力を親も教師も持っていただきたいなと思います。
 大須成学園で子どもたちはだいたい6時半に起きてくるんですよ。「何でこんなに早く起きてくるんだろう?」「約束したからだよ」と。実は約束したからではなくて、ストレスがないから起きてこられるんです。起きてくるとバカ騒ぎがあって楽しいから起きてくるんです。

 私、だいたい子どもといる時は、口から出る半分は冗談です。ゲラゲラゲラゲラ笑っています。今回も小学生の母親が3人来ていて、3人は別室でボランティアさんのお部屋で寝泊まりしてよいというふうにしてあるんです。食事の時は一緒なんですがね。お母さんが笑い転げてご飯が食べられないんですね。「苦しい」「痛い」とか言ってお腹を押さえていますよね。「こんなに笑ったことない」と言って。子どもといる時はそういうふうにしています。子どもはまたチェリーのバカ話を聞いてやろうかと起きてきますよね。要するに、本当に子どもが無理をしているんだなあということが分かってあげられればいいなあと思います。

 人前で恥をかかせられたり、どんなに頑張っても親たちから認められなくなったと思った時に、自己否定的な行動をとるわけです。とてつもない犯罪的行動に走るか、全く外に出なくなって、部屋からも出なくなって、親とも顔を合わせなくなってしまう。そんな状態に陥る。
 こんな言葉はないんですが、私が勝手に作った言葉ですから、自己否定神経症状態ですね。なんでもかんでも自己評価が低い場合は、自己否定的になってきて、あるいは自己を消して、否定神経症と言ってもいいんですけれども、人も否定します。こうなると本当に外になかなか出て来なくなる。

■原因の除去と心のケアを

 学校に戻る条件(A) ― 心に傷を持っているかいないか。

 実は心の傷は見えません。心の傷は見えないけれども、あるかないかは現象によって分かります。子どもが心に傷を負っているかどうかは、専門家ならすぐに分かります。たとえば無感覚、情動の鈍化、他者からの孤立・離脱、周囲への鈍感さ・注意力の鈍化、フラッシュバック、類似体験回避、快感欠如、恐怖心、自律神経の覚醒状態、不眠、自殺念慮、こういったものがあるわけですね。それも即座に起こるというよりは時間差があります。その事件とか、いじめがあったらいじめ、教師に殴られたら殴られたことがあって、しばらく経ってから起こるというのが一般的です。即座に起こる場合もありますが、一般的には数週間経ってからと言われています。

 たとえば、阪神淡路大震災の後ですね、このPTSDについては随分研究されてきたんですね。私も1ヶ月に1回、巡回相談でずっと回りました。ついこの間まで、最後のお子さんが完全に元気になるまでやってきました。3年くらいかかり、4年目にかかりました。随分長いこと関わったんですね。お陰様と言ったらおかしいですけれど、そのお子さんは元気に仲間と活躍していますから、もう心配ないと思います。

 こういったものがあった場合に、心の傷が確認できます。このような事態には陥らずに、睡眠、入眠とか覚醒、起床が安定し、睡眠が出来、熟睡が出来て、食事も普通にとり、特別な反応もなく、人との対人関係も出来るなら、心の傷がたとえあったとしても、深くはないと考えてよいと思います。

 そのような場合、欠席の直接のきっかけとなった原因の除去を子どもの満足できる方向で実現できると、比較的早いうちに手を打っておけば、登校につながるわけですね。で、社会参加した人の場合も、社会参加した先のアルバイト先で、ひどい目にあって心の傷となってしまった時に、向こうの上司なりなんなりに理解力があれば、随分変わった状態が起こってくるだろうと私は思います。えてして直接のきっかけの原因の解消、これは簡単なんだということです。

 で、(B)として、心の傷を負っている場合です。

 たいがいの子どもは欠席し始めた時にはすでに心の傷を負っていると考えた方がいいと思います。あるいは、引きこもってしまったら、もう引きこもっている時からもう心の傷を負っていると考えた方がいいと思います。なぜなら、不登校になること自体が心の傷に相当するのです。
 大半は子どもが学校を休み始めると、休み始めた心の背景や経緯より休んだことへの責めが親や教師によって行われるわけですね。「なぜ休んだ」とか「学校へ行かないなんて怠け者だ」とか、さんざんののしられるのが普通です。心が苦しく辛く哀しい思いを抱いているのに、周囲の大人たちからは責められダメージを受けています。

 どんな場合でも原因の除去はし易しくても、子どもが心に傷を負ってしまっている場合は、子どもが登校に至るためにさらに周囲の人々が心のケアという努力をしなければならない。原因の除去だけでなく、心に受けたダメージを癒し、いたわり、心をいつくしむという気持ちが周りの人に必要になるわけです。

■カウンセリングマインドとは何か

 埼玉県の先生方には時々デリカシーのない方がいらっしゃるみたいで、時々腹が立ちます。しかも、残念なことにこの近辺の教育相談の退職校長の中にはなはだ対応の悪い方がいらっしゃいますね。親を犠牲にしてしまいますよ。ますます悲しんでますます混乱させるんです。
 何のための教育相談なんだと言いたいですよ。何でもっとちゃんと研修を受けてくれないんだと。私なんかメンタルフレンドの研修会は無料ですからね。今日もその会場をただで貸して下さっている先生がいらっしゃっているんですけど。先生にやる気があったら、子どものことを理解する気持ちがあったら、日曜日なんだから出て欲しいですよね。

 埼玉県ではさわやか相談員さん、ボランティア相談員さん、それからスクールカウセラーの方も随分出ていらっしゃるんですが、残念ですけど、学校の教師が埼玉県ではほとんど出席がないんですね。まあ、宣伝していないのも一因でしょうけれども。心の傷があった場合にやっぱりそういうふうに理解してほしいなと思います。

 周囲の人が心のケアをするという気持ちが必要です。アカンタビリティーではなく、今度はカウンセリング・マインドという精神が必要になるんです。何も言うな、何もするなというのがカウンセリング・マインドではないんです。優しくするということです。日本の社会的な言い方をすれば、「甘やかす」ということです。甘やかすことは悪いことではありません。ただし、これは気をつけていただきたいのですが、「ワガママ」と「自己主張」とは違うということです。

 これは、やはり埼玉県のある私立高校なんですけれど、自由を謳っているその私立高校では、勝手気ままが許されているんですね。どういうことで許されるかというと、それが「自己主張」という美名で許されちゃうんですね。「勝手気まま」と「自己主張」は違うと考えてください。自己主張の背景には正義があるということ善があるということです。この価値観のもとに自己主張が行われるから自己主張なんです。勝手気ままというのは他人の迷惑をも顧みず、今ここに集まっている目的も顧みず、自分の好き勝手をやることが勝手気ままなんですね。

 不登校のお子さんは、正当な自己主張もするんですが、認めてもらえないんです。やっぱり勝手気ままな子どもたちに負けてしまうんですね。そういう意味では本当に気の毒です。私はそういう子どもと生活をしているから随分思い入れている部分があるかもしれませんが、中学校や高校で「自己主張を大幅に認めます」なんて勝手気ままをやらせておいて、「何を言ってるの、これが教育かい」なんて思うことがありますけれども。


■不登校の二次的反応について

 最初にも述べたんですが、子どもが不登校状態になると、時の流れとともに様々な変化が起こってきます。その二次的な反応は、子どもの生い立ちによってもかなり異なってきます。寝起きに関する日常的な生活リズムが不安定になる。これも二次的な反応です。怠けではありません。日常生活習慣が崩れる。食事をしなくなったり、お風呂に入らなくなったり、床屋に行かなくなったり、歯を磨かなくなったりする。これもだらしなくなるわけではなくて、二次的な反応です。見た目がだらしないだけの話です。ゲーム・マンガ・テレビ・CD・カード・クッキングなど、人間性とは関係ない遊びや趣味に没頭する。現実感が失われる。学習が手につかなくなる。それぞれが二次的な反応であると。それぞれの生い立ちによって違ってくるんです。あるいは、不登校や長期引きこもりのきっかけとなった出来事によって違ってくるんですね。
 学習性無気力感。現実検討能力の欠乏状態ですね。ほとんどが幻想的であって現実的ではなくなってきます。自閉児的であって現実感がほとんどありません。これは生い立ちによって違ってきます。

 日常生活の崩れを見ますと、自分自身で自分の心身の安全を守るために自分のライフスタイルを変えているんだというふうに考えてください。つまり、引きこもっている子どもたちの、あるいは不登校の子どもたちの心身、心と体の安全を確実に保障してあげたり、何かやりたいことを100%支援してあげることが出来れば、子どもらは自分たちの日常生活を自分で守る必要がなくなります。そして、社会参加し始めます。

■日本の社会にあった育児を

 実際に不登校がたくさん出始めた時代を、何かと関係があるだろうとを見てきたんですが、実は育児書の出版が盛んになった頃なんですね。つまり、家庭の中の育児ではなく、育児書に従って育児をし始めた頃からどうもおかしくなった。お父さんやお母さんが自分の主体性で育てるというよりは何とか博士が主張する育て方をするようになっておかしくなってきたんですね。

 だいたいヨーロッパやアメリカの育児姿勢というのはキリスト教精神に基づいたものです。これははっきり言って日本の社会にはそぐわないものです。私自身も牧師の癖してそういうことを言うのは良くないんですけれども、ピンと来ませんね。私は外国人との生活が長かったんですね。それで外国人の育児を見てきましたけれども、日本人の私から見たらはっきり言って冷酷ですね。私が一緒にいたのはほとんどが宣教師の家族や牧師の家族が中心でしたから、よけい厳しかったのかもしれませんが、あまりいいものじゃないなと思いました。やはり私たちは人間の心を育てるためには、言葉かけが必要ではなかろうかと思うわけです。

 どういうことかと言いますと、子どもたちは早期能力を開発するということで、いろいろな情報をたくさん与えられ過ぎています。人間の脳の器があったとすると、溢れるほどのものを最初から詰め込まれてしまった場合、よほど興味のあるものでないと後から来たものはみんな溢れて通り過ぎていってしまいます。こぼれて外に出てしまう。

■フィーリング世代の子どもたち

 今の子どもたちに与えられる情報は、テレビ、音楽、ラジオ、CD、ステレオ、など文明の利器によってたくさんあります。
 私たちが見たものは何かというと、絵本ですね。1ページがあると、右側に絵、左側に文字、あるいは1ページずつに絵があって、文字が数行書いてある。それを味わって見ました。
 今の子たちはどうですか。毎週1回、週刊マンガが出ます。で、ここにマンガが10何コマありますよ。見る量はたいへんですよ。私はマンガを読んでもすごい時間がかかるんです。「マンガを読む」と言ったら笑われました。「マンガは見るもんだ」と。マンガを見るにしても、私は子どもたちの倍はかかります。1コマ1コマ見てたらたいへんですよね。「そんなのは1コマ1コマ見るもんじゃない」と言われました。どんなのあったか、後で思い出そうとしても全然思い出せないですけど、彼らはちゃんと覚えています。すごいですね。

 視覚聴覚に関して言えば。私たちは言葉で育てられてきて、文字に移っていって、論理的思考をしています。彼らは目で見て耳で聞いて、論理的なところではなくて直接のイメージで理解します。この感覚の違いは、大きなズレを生みます。私たちは十分にそのことも理解しておかなければいけないと思います。

 子どもたちはフィーリング世代だと言われます。かっこいい・かっこ悪い、好き・嫌い、そういう価値観で大体が決まります。嫌いだからやらない、好きだからやる。論理的な判断ではない。嫌いだけれどもやらなければいけないとか、正しいことだからやらなければいけないとかは考えない。そういう時代と今私たちは対面しているわけです。十分に気をつけていただきたいなと思います。

■大人が楽しく生活を

 問題があるとその問題ばかりを何としようと思うんですね。そうじゃなくて、大切なことはもっと日常的なことなんです。「今日の晩ご飯何にする」とか、「会社で面白いことあるよ」とか「あんたどんな仕事しているの」とか。
 問題ばかり見つめるのは警察官、弁護士、消防士です。お母さんお父さんはもっと広い日常性がいっぱいあるはずですから、そちらの方に目を向けて楽しく生活していただきたいなあと思います。

※「ニコラの会」主催の講演会から

    高橋 良臣
    登校拒否文化医学研究所
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