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子どもの起こす犯罪をどう防ぐか


2003/11/09
子どもの起こす犯罪をどう防ぐか

埼玉県熊谷市の4人殺傷事件に関与した16歳の少女と15歳の少年、長崎の男児誘拐殺人事件、そして大阪の男女による家族殺傷事件…。これらの事件に限らず、日本の至る所で思春期前後の少年少女による驚がく的な事件が相次いで起きている。少年たちが変わったのか、家庭や学校、社会に問題があったのか。そんな議論が起きている。長崎の事件では「発達障害の子が起こす事件」と新聞で報じられたこともあって、各地で障害のある子どもを持つ親たちに衝撃が走った。埼玉県ではそんな親たち集まって緊急集会を開くことになった。

心理学者の説によれば7歳頃までは罪の意識は希薄であると言い、思春期までにそれが出来上がるのだとも言う。そして文明の利器が発達した現在、子どもが殺す気になれば、きっかけや手段はいくらでもある。銃で撃つこと、刃物で刺すこと、ビルから突き落とすこと、ゲーム感覚で殺すこと…。「純真な」子どもだから人を殺すということはしない、という素朴な考えは、いつの時代でもどの国でも通用しない。大人と同様子どもも人を殺せるし、殺しているのだ。むしろ大した心理的抵抗もなく殺せるのは子どもの方かもしれない。

では、なぜ近年年少者の凶悪犯罪が注目されるようになったのか。そこに謎を解く一つの鍵があるのではないだろうか。

地域と学校と家庭の協力と言われるようになってしばらく経つが、実効性はいかがなものだろうか。単なる掛け声に終わっているのではないか。そんなことを改めて浮き彫りにした事件のように見える。

というのは、これら常識的な大人には信じられないような年少者の事件の背後には、彼らが自立した社会人として育つのに必要不可欠な要素がすっぽりと抜け落ちているケースが多いからである。「信じられない」と言うなら、その事件以前に彼らが育ってきた環境にまず言えることだろう。「打つ手はなかったか」と報道もされたが、学校、児童相談所などの行政対応、家庭の様相、地域社会の状況などを見ると、打つ手はなかった、と言わざるを得ない。現状のこのシステムではそのような少年少女を救うことはできないと。

昔も今も生まれ来る子どもたちに大きな違いがあるとは思われない。あるとすればその後の成長過程での違いである。そしてそれは地域と学校と家庭の繋がりの違いということである。だが、それは昔の地域や学校や家庭が今よりも優れていたということでは決してない。その個々のものは社会の進展にしたがってより優れた快適なものになってきているはずである。また、昔の方が子どもとのかかわり方や子育てが上手であったとも言えないだろう。では、何が変わったのか。

それは地域の連携機能、とりわけ地域の補完機能とでも言うべきものではないか。個々の機関や場が十分に対応できなくても、それを取り巻く周縁部の作用がそれを補っていたのである。だが、今やそれぞれの繋がりはなく、その場が不全であればそこにいる人間は他との関わりもなく孤立するしかなくなる。かつてはそれが継ぎ目の役割を果たしたが、今はそこにクレーターが横たわっている。

この問題が解決に向かわない限りこの種の子どもたちは確実に輩出されるし、事件もまた起きることになるだろう。だが、本質的にこれは個々の子どもたちの問題ではない。子どもはまだ人としての学びを受けぬまま選択の余地なくそこで生き、もがいているだけである。善悪の基準も規範意識も育てられぬまま差し伸べられる手も見つからぬままもがいているだけである。地域・学校・家庭の連携とか青少年育成事業とか上からの空疎な掛け声だけは数々あるが、それで事が変わると本気で思っているとしたら随分おめでたいことだ。いや、やっている方の薄々そのことは気付いているはずだ。そんなものは事業費をいたずらに消化するだけで何ら具体的な実効性はない。

我々は何をすべきなのか。どこから手をつけるべきなのか。
今はただ細々とした民間の活動に委ねているだけである。行政が企画するものには明らかに無駄に見えるものにも多大な費用をつぎ込む。時には「やりました、成功裏に終わりました」という既成事実を作るためではないかと思わないでもないものもある。そんなものはいらないのだ。それよりは民の努力や創意に少しでも力になろうと手を貸すことに資金を使ってはどうだろうか。民活も行政の掛け声だけでは育ちはしないのだから。



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