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変わらぬ授業風景


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変わらぬ授業風景

 学校という閉じた円環の世界

 インターネットで調べると、学校の教員が主宰・管理しているたくさんのサイト、掲示板、メーリングリストなどを見つけることができる。中には数百人にとどまらず数千人の教員が参加しているところもあるようだ。そして、個々の教育の問題や教育方法・教育技術などについて花が咲いている。毎日管理人がコメントをつけることを信条としているところもある。いや、熱心と言うか、暇と言うか…。

 だが、そういうサークルを見ていて、学校の教職員ではない人間にとっては、奇妙な違和感を覚えることがある。これはきっと学校の教員の方は気づいていないことではないかと思う。一言で言えば、学校の教育という閉じた円環の世界の関心事に終始していて外部の世界には繋がっていないという印象が強いということである。いや、もしかしたら教育の対象とする生徒たちとも繋がっていないのかもしれない。教員の方たちが熱心に発言しているところほどそういう感覚を覚えてしまう。これはどういうことだろうか。

 変わらぬ授業風景

 縁あって、地元の公立高校が初めて行うという公開授業を見学に出かけた。その高校は偏差値のレベルから言えば決して上位の高校ではないが、今年から30人学級となり、また教育に熱心な教員もいてそれなりの取り組みをしているということだった。

 世間で授業の理解度は七五三と言われ、小学校での理解度は七割、中学は五割、高校は三割くらいだという。果たしてこの高校ではどうなのだろうか、そんな興味も手伝った。

 職業科三クラス、普通科四クラスで英語、国語、社会、数学、理科、保健等の授業が行われていた。どのクラスの授業も一通り見て回ったが、教科の違いにかかわらずほぼ一様の授業風景であった。教室の前方、黒板の下には一段高い教壇があり、教師は授業の間ほとんどそこから下りることはなく、一方向的に話す形で授業が進められ、時折教師からの発問に二、三の生徒がぼそぼそと自信なく答える他は、生徒たちはただひたすらノートを取ることに終始していた。

 この風景は、馴染みのものである。四十年ほど前、私が高校生であった時に受けた授業風景とほぼ似たものである。いや、違う。私の頃はもっとクラス人数が多かったし、もっと授業に活気があったように思う。生徒たちがこれほど受身でノートをとっていたという記憶もない。一人ひとりの生徒はもっと問題意識を持って授業に臨んでいたのではなかったか。いや、もっと屈託のない様子で授業を受けていたのではなかったか。だから、馴染みの風景だと私が感じたのは、実は、この授業形態が相も変らぬ古典的な授業形態だったからということに他ならない。

 林竹二さんの古典的授業

 古典的な授業形態と言えば、私はすぐに林竹二さんの授業を思い出す。直接、林さんの授業に参加したことはないが、「林竹二さんの映画を観る会」が主催した会で何回か林さんの授業風景を見たことがある。その記憶は今でも鮮明で、田中正三についての授業、夜間高校での授業風景、知的障害者も参加した授業など、その一こま一こまは私に強烈な印象を残したのである。それはすべて「授業とはこうあるべきものだ」という固い信念に貫かれていたように思う。その後、私はその映画に触発されたかのように林さんの著作を何冊も読んだものだった。

 林さんが語った言葉もいくつか鮮明に記憶している。
●「授業は子どもの心にドラマを起こすことだ」
●「授業の前と後では子どもは変わっていなければならない」
●「教師が教壇を下りたときから本当の授業が始まる」
 というような類の語録である。

 ただ、このことは、林さんから感化を受けた教員たちが自ら語っていたように、誰もが出来る授業ではない。誰にもこういう授業を要求できるものでもない。それは林さんだからこそ出来た授業でもあった。強烈な個性と語り口、その信念、その存在感があって初めて可能な授業でもあった。そして、私から見れば、それは「古典的授業」の典型であった。

 古典的授業の終焉

 今回、私が高校で見学した授業も、その古典的な授業の形態によるものであった。教師が一手に授業の主導権を握り、その権威をもって生徒たちに説明し、語りかけ、問いかける。そこに教師と生徒とのダイアローグ(対話)も含めた古典的な授業が展開されるはずであった。だが、そこにあったのは、その形骸に過ぎなかったように思う。

 もはや、古典的授業を成立させる前提となるもの、たとえば教師の権威、教師への尊敬、教師の真摯な語り、生徒は教師の一言一句に耳を傾け思考しているという信頼、そういうものが最早そこには存在しないかのようなのだ。教師と生徒との間に、授業を媒介としたダイアローグやドラマそのものがない。林さんが言う「授業の成立」がもうそこにはないのである。

 極論するなら、教壇からはただ空回りする教師の言葉が発せられ、それは生徒の耳元をかすめて行き、ただ機械的に板書された文字をノートに写し取る単調な作業だけが繰り広げられている。もはや「考える」という営みすらそこにはないかのようである。

 今年から、四十人学級から三十人学級になったというが、その効果が授業のどこに現れていたか。それによって教師の多忙さは多少軽減されたかもしれないが、授業の質には何の変化も見られない。五十人学級であった私の頃と何ら変わったものは見られない。古典的な授業を成立させていた根拠が失われた中で展開されている今の授業は、むしろ悲惨でさえあるように映る。私は、クラス人数の減少によって、旧来の授業が質的に変化するかもしれないという多少の期待を抱いて見学したのであったが。

 教育とは本質的に教師と生徒との間のダイアローグや知を媒介とした精神のドラマによって成り立つと考えるならば、今それを学校教育の場に見出すことはとても難しくなっているのかもしれない。

 だとするならば、学校が教育の成立する場として機能するためには、生徒指導とか学力低下にどう対応するかという問題の前に、授業の中にいかにダイアローグやドラマを回復するかを模索することではないのか。それが失われているところでは、いくら学級人数を減少させたとしても、習熟度別クラス編成を導入したとしても、あるいは生徒たちに外面的な規律を求めたとしても、学校教育の根幹をなす授業の成立はなされないのではないかと考える。



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