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自由の辛さ・苦しさ


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「自由」の辛さ・苦しさ……現代の子どもや若者を見て想うこと 馬場 章

 「ぱいでぃあ」には小さめのガラスの水槽があり、その中でクチボソが17匹と1匹のブルーギルが泳いでいる。これらの魚は近くの池で子ども達と釣り上げたもので、ブルーギルは見事私がゲット!。

 さて、これらの淡水魚を見ていると、種類による違いがよく分かる。クチボソは仲間とじゃれ合いほとんど人には注意を払わない。びっくりすれば逃げるだけ、餌がくれば飛びつくだけだ。ところが、ブルーギルは違う。水槽の中から絶えずじっと我々人間を観察している。少しのことでは動じない。水槽に顔を近付けると、ギロッとこちらを見返してくる。ところが、私が餌をくれるなと見ると、とたんに尻尾をふってガラスに顔を押し付け激しく動き回る。そして、餌を落とすのがすこし遅れると、水面から飛び上がり、私の指先にまで飛びついてくる。クチボソはその後にようやく餌が来たと騒ぎ出す、といった具合だ。

 このギル君、普段はクチボソがちょこまか動き回ってもわれ関せずの様子だが、うるさいと感じた時は、ぐいっと口をあおって追い払う。群れることを嫌うとても孤高な奴である。たとえ水槽の中で飼われる身ではあっても、自由であること、自由である故の孤独を引き受けることを自らの矜持とした趣さえ漂わせている。人にたとえれば、たとえ捕囚の身とはなろうとも、精神の自由までは譲り渡さないぞ、ということか。

 蛇足だが、ブルーギルという魚は、一度人の手に捕まれば、二度と生きては水槽から出られない宿命にある。日本の在来魚を絶滅させる害魚と指定され、リリースしてはならない魚とされているのだ。
 実は、このブルーギルは1960年、現天皇がアメリカを訪問した折に土産として持ち帰ったのが日本への最初の移入であったという。たぶん当時は将来そんな悪名高い害魚になるとは思いもしなかっただろう。今、皇居のお堀に棲む魚の90%近くがブルーギルだとも言われている。

 ブルーギルの話はこれくらいにするが、それにしても、自由であるということは、かくも孤独な精神的な営みであるということを、ギル君を眺めていて、つい感じさせられてしまう。孤独であるということの厳しさ・苦しさ、それを引き受けることなしには精神の自由もまた獲得し得ない。その自由のためにその厳しさ・苦しさを敢えて引き受けるのだと。

 さて、自由・孤独と言えば、どうしても今の子ども達や若者達の置かれている状況を考えてしまう。一人でいることの辛さや苦しさを訴える人たちが多いのだ。自らの矜持として孤独である自由を選択したのであれば、それが辛く苦しいものではあっても、自らの生き方の問題としていくらでも堪えることが出来よう。だが、彼らの場合にはそれとは違う事情が働いている。それは、自ら望んだ選択ではなく、意図せずして選ばされた自由であり孤独であるからだ。

 このことは、一見群れることを楽しみ、絶えず気の合った仲間と行動している若者達にも言えそうだ。一人でいる時は弱くて孤独で不安な自分が、その仲間といる瞬間だけは自分は受け容れられていると感じ、何か大きな力を得たような錯覚に浸ることができる。

 この先に何があるのか。この問題をどう克服すべきなのか。
 そこにエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』の問題を見る人もいる。あるいは、ジョージ・オーウェルの『1984年』や『動物農場』の問題を見る人もいる。今流に言えば、個とアイデンティティーの問題とでもいうことになるのだろうか。
 とにかく、一人で「在る」ことの問題を抜きにはなかなか解けそうにない、とても難しい問題が横たわっていると言えそうだ。

 「ぱいでぃあ」の子ども達が一日の活動が終わった後も、すぐには帰ろうとせず、みんなカードゲームなどをして盛り上がっている。時折、わっと大きな歓声もあがる。

 そんな子ども達の様子さえ、ブルーギルはガラス越しにじっとこっちを見ている。「あいつら、何をやっているのか」という風情だ。その面構えと根性に脱帽というしかない。


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