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子どもの生きる難しさ


2003/07/26
■子どもの生きる難しさ

最近の子どもの事件をみると、子どもが犯罪に巻き込まれる、と言うよりは、自ら犯罪を引き起こす側にまわっているという感じがする。以前から少年少女事件の低年齢化が人口に膾炙されるていたが、正直、とうとうここまで来てしまったかという思いが強い。

それにしても、我々大人の側はいったい何をやってきただろうか懸念を口にするだけで何の対策もとってこなかったのではないか。子どもたちはただ無防備なまま危険な環境に放置されていたに過ぎないのではないか。新聞では詳しいことが分からないので、ネットや雑誌などいろいろ当たってみたけれど、子どもを取り巻く環境の悪化を改めて確認し、暗澹たる思いにさせられる。これは誰が何のために作ったのか。

事件の加害者にせよ被害者にせよ、大人の作った環境の犠牲者という側面がとても強い。鴻池大臣は加害者の親について「市中連れ回しの上、打ち首」というような時代錯誤な発言をしていたが、上に立つ者の発言とは思われないばかりか、この人は何も分かっていない。自らにも責任があるという自覚は微塵もない。

かつて「親はなくても子は育つ」と言われたのは、たとえ家庭での子育てが十分ではなくても子どもが育つ環境が周りにあったことを示している。だが、今そういう環境がどこにあるか。
人は二度生まれる、というのが私の考え方にあるが、それは生物学的誕生と文化的社会学的誕生が人間になるためには必要であるということである。ところが今、この第二の誕生がとても難しいものになっている。今回事件を起こした子どもたちは全て第二の誕生に失敗した子どもたちであると言える。姿形は人間であっても、中身は荒涼し、異形の育ちをしているのだ。

現代は情報化社会と言われ、それが加速度的に深化している。しかし、情報化社会をどう生きるか、どう付き合ったらいいのかの知恵を大人も子どもも持っているようには見えない。
たとえば、かつて人が他人の家に上がる場合、それなりの礼儀や節度があり、上げるか上げないかは家人の判断であった。ところが、今はテレビ一つにしても食卓であろうと団欒であろうと寝室であろうと、何の許可もなくいきなり家庭の中に飛び込んでくる。インターネットやビデオを見れば、どんな映像もたちどころに子どもの目に飛び込んでくる。社会的体験に乏しくその視野も狭い子どもたちにそれがシャワーのように浴びせられる時、どんな影響を子どもたちに及ぼすのかに大人たちは意外なほど無知であり無頓着である。大人の側がそれを加速させる役割を演じていることさえある。全ては大人にとっても未知の体験であることに一つの原因があるのかもしれない。

このような未曾有の混乱は今いたるところで深化しつつあり、すぐに解決の方途はないとも言える。とするならば、とりあえずは行き着くところまで行くしかないのかもしれないという悲観的な見方さえ出てくる。

ただ、一つ確認しておかなければならないのは、事件の起こした家庭だけを責めても何の解決にもならないだろうということである。断じてこれは子どもだけの問題ではない。今問われているのはむしろ大人の側である。金になるのであれば何をしても構わないという拝金主義がこういう社会を作ってしまったことを深く反省しなければならない。かの子どもたちはその深みに足をすくわれ、いわばその犠牲となった子どもたちなのである。

もし、変わるべきを要求するのであれば、大人たちこそ変わらねばならない。だが、それが大人たちにできるだろうか。子どもたちの問題を指摘し、変わることを要求するのは容易である。だが、その大人たちが自らを変えることができるだろうか。正直、大人を変えるのは難しい。自らを断罪することから始めなければならないからだ。しかし、もはやそんなことを言っている時ではない。常軌を逸したような子どもたちの行動は大人への告発であり、呻吟の声であと考えるべきである。




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