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いい子の非行から見えること


2001/08
■いい子の非行から見えること

講師:家庭裁判所調査官・佐々木光郎さん

 子育てに完全はないと言われます。ほどほどにとも言われます。しかし、そうは言われても、子を愛すればこそ、親としては子により良いものを与えたい、よりよく育って欲しいと願うものです。そして、これでいいのだろうかという不安を拭い切れなくません。その結果かえってバランスを欠いた関わりになってしまったりもします。

 今、周囲の大人達からも「いい子ねえ」と見られ、親の期待を一身に体現してくれているような子が、ある時を境に思いがけない行動に出ることがあります。子ども達の心に何があったのか、親や周囲の大人達の関わりの何が問題であったのか、「いい子」の行動が私たちに鋭い問いを投げかけています。

 そこで、「ニコラ6周年記念講演会」として、長年、家庭裁判所調査官として少年非行に関わってこられた佐々木光郎さんに、従来の少年非行の様相とは異なる、近年の少年非行に特徴的な「いい子の非行」について臨床の現場から語っていただきました。
 以下、その要旨です。

     *     *     *

■家庭裁判所調査官とは

 家庭裁判所の調査官というのは、皆さんあまり聞いたことがないだろうと思います。家裁には、少年部と家事部というのがありまして、少年部というのは少年法のもと、14歳から19歳までの主に中学生・高校生らの非行少年を対象としています。調査官はその少年審判の補助者ということで、非行の原因はどこにあったのか、どのようにしたら立ち直っていくのかを調査しております。

 私らは、教育学あるいは社会学や心理学、そういった人間諸科学を大学で専攻した司法のケースワーカーというか、司法の中の臨床家という非常に世界的に見ても珍しい職種なわけです。

 そういう仕事がどうして必要かと言いますと、
 1つは、子ども、特に思春期・青年期の犯罪というものは、間違いや試行錯誤、青年期の過ちというか、そういう発達的な問題、心理的なトラブルということが十分に背景にあるということ。

 2つ目は、育ってきた本人だけでなく周りの学校や家庭といった環境の改善ということを人間関係の視点から提案していくということ。

 そういうことが必要な職種として戦後に出来た仕事なわけです。少年審判は裁判所が行いますので、我々が今言ったような報告をして、補佐をしていくということになるわけです。そういう職業なわけです。
 ですから、私が入ったのは30年くらい前になりますが、あまり世間にもこういう仕事があるということは知られておりません。私も、まさかこんな風に話すような時代になってくるとは夢にも思っていませんでした。

 そういうことで、非行臨床と言って調査面接が中心なわけです。本人とお父さん、お母さん、せいぜい学校の先生も一緒に入りますが、普段は私を見ている目は、一人の人間に目が二つありますから、4つか6つぐらいなんです。今日のように多数ですと、こちらがどこに目を置けばいいかよく分からないんですよ。
 で、あるとき学校の先生に聞いたら、そういう時は、だいたい5ヶ所ぐらい、目をぐるぐる回していればいいんだよと。5ヶ所というのは、あちらの端っこと、こっちと、こっちと、こっちと、真ん中。そうやっていれば全体を把握しているように見えるんだ、と。なるほど、一斉授業をやる人というのは、そういうふうに全体を把握しなきゃいけないのかなあと感心したことがあります。

 私ら臨床家というのは、普段はこういうふうに上から見るということは全くないわけです。同じような目の高さで、横に一緒に並んで話をするとか、せいぜい向き合って話をする。ですから、その辺が教育の現場とちよっと違う仕事をしているのかなと思っているわけです。

■非行少年の特徴と実際

 30年前、私が調査官になった時、非行臨床の教科書には非行少年についてだいたい次のような3つの特徴があると書いてありました。

 1つは、本人が学校に居場所がない、つまり勉強の出来が悪いということ。
 2つは、本人自身の人と交わっていく力とか子どもの社会を作っていく力が弱く、孤立して、みんなと一緒に頑張っていく力が弱い、コミュニケーションスキルが弱いということ。
 それから3つ目は、お父さん、お母さんを含めて、家庭が教育熱心ではなくて、親自身が困難を抱えているということ。
 こういった事柄が非行少年の背景としてあるんだと書いてあるんです。

 物を盗んだり、人を殴ったり、あるいはバイクで暴走したりというような子どもたちは、基本的には、今あげたような困難を抱えているということは間違いない。いわゆる学校からの落ちこぼれというか、むしろ落ちこぼしと言った方がいいかもしれません。そういう背景は残念ながら今後もなくならないのではないかという気がしています。

 そんなわけで、困った子ども達、人に迷惑をかけるような子ども達というのは、今あげたような家庭や学校の中からはみ出してしまった子というか、そういう子ども達で、だから「そうか」と思ったし、現にそうなんです。

 しかし、そうは言っても、そういう子ども達が青年期が終わっていよいよ大人になっていく時にみんな社会的に適応していけないかというと、そうではない。それなりに、いい仲間との出会いがあったり、いい配偶者に巡り会ったり、先輩に「お前こういうことしちゃダメだぞ」と一言いわれて大きな転機になったり、親自身の支えがあったりと、いろんなことで、ほとんどの子がそれぞれ大人になって社会に出てから立派なお父さんお母さんになって、家庭を持っていくというふうに考えていいと思うんですね。もちろん、本人の力も必要なんですけれども。

 ですから、一口に困難を抱えた子ども達がすべて大人になっても困難を抱えた大人かというと、必ずしもそうではない。そういうところを、長いスパンをかけて見ていかなければいけない。

 むしろ、我々臨床家から見ますと、そういういろんな間違いや試行錯誤が青年期にあった人ほど、何か大人になった時にひと味違うというか、かえっていろんな困難を乗り越えていく力というものを、逆にまっすぐ来た人よりもあるいうか、もちろんある人もいるし、ない人もいるんですが、全体としては、そのような生き方をしているというふうに見えるわけですね。

 そういう点で、非行少年というと、何かあたかも全人格を否定的に見られますが、あくまでも犯罪という一つの行為が問題なのであって、人間そのものは成長していくものだということをよく理解してもらわなければいけないと思います。

■新しいタイプの非行少年

 さて、こんなことを思いながら30年近くやってきまして、1990年代の前半から後半にかけて、ですから、今から7、8年前から10年ぐらいに、今まで見たこともないような少年達が目の前に現れるようになってきました。もっとも、全く見たことがないのではなくて、点のようにポツポツといたというか、そういう子ども達だったんですが、次第に円のような広がりの中で、少年事件の割合を占めるようになってきた。それを、私が勝手に名前をつけたんです、「いい子の少年による非行」と。こういうことなわけです。

 ある人から、「どうして良い子でなくていい子なのか。お前なまっているからいい子なんだろう」と言われたんです。「良い子といい子というのはどこが違うのか」と真面目に質問されたんですよ。言っていることは同じだろうと思うんです。ただ、「いい子」というと口語体ですから、身近な子どもの存在という感じですが、「良い子」というと文語体で、お利口さんのきちんとした子どものように思われるので、必ずしも決まっているわけではないのですが、ここでは「いい子」としました。

 さて、それで、勝手に「いい子」と名付けまして、どういうことをしている子ども達を言うのかといいますと、一応3つばかり概念規定したわけです。
 1つは、親や教師、いわゆる周りの大人から見て、勉強、スポーツ、その他の習い事を、少なくとも一生懸命頑張って、それなりの成績がある子。
 2つ目は、性格的にも素直で真面目で、大人の言うことをよく聞いて、そのように行動している子。
 3つ目は、本人も一生懸命、家の中でも学校の中でも、大人の期待に応えて、一見、一生懸命に頑張っている子ども達です。
 こういう3つの条件をあげて、「いい子」にしたわけです。

 ですから、「いい子」というのは、子どもから見た発想の言葉ではなくて、大人から見た「いい子」だというふうに全体として考えてもらいたい。これがこれから話す大きな糸口なんです。

 ですから、今あげた子ども達というのは、いろんな問題を抱えた子ども達という非行少年ではない、新しいタイプの子ども達です。

 たとえば、首都圏で勤務した時に、いわゆる「おやじ狩り」というのがありました。おやじ狩りというのは、私のようなしがない中年の男性、明らかに弱い、しかも酒に酔っている人を狙うことです。数名でおやじ狩りした子に「お前一体、将来何になるんだ?」と聞くと、大体、学校の先生とか、弁護士とか、検事とか、科学者とか言うんです。

 かつての非行少年達というのには、絶対に弱い者を狙わないという非行少年の不文律があったんです。これはきちっと守られていました。10年くらい前までは。だから、対等の者か上の者を狙うというのが非行少年。ガンをつけたとか、生意気だとか、一応、決して弱い者を狙わないというのがあった。

 ところが、新しいタイプの子ども達というのは、明らかに弱い者を狙う。何で酔ったおやじなのかというと、「絶対的に自分達が勝つから」と言う。他にも、おばあちゃん達など弱い者を後ろから狙ってひったくりをする。そういうように弱い者を狙う。

 これは、学校のいじめの関係が学校外に溢れ出したという感じがするんですね。絶対に強い者をやらない。これが最近の子ども達の特徴なんです。

 私が調査面接してますと、被害者はちょうど私と同じ年。ヨロッとふらついているところもちょうど同じなものですから、被害者と私を同一視しまして、調査官としての立場ではなくて、「とんでもない!」とつい怒っちゃうんですけど…。専門家としてはいけないことなんですが。それほど、いじめと共通するものがある。なぜそうなったのか。昔の非行少年達にはなかったことなんですね。

 それが、面接していきますと、どれも「いい子」であることが分かる。これがキーなんです。で、「いい子」をさせられているということなんです。さっき、「いい子」というのは、大人から見た目だといいましたけれども。

■良いところしか見ない親

 これはある有名な私立の高校に入った1年生の少年の事例ですが、「ぼくの家庭は学校の職員室のような家庭だ」と言うんです。「のような」って言うのが面白いんです。「のようなって、どういうことか」と質問しました。そしたら、居間の中に大きなボードがありまして、月間スケジュールというのがありますね。曜日を書いて。学校にありますよね。月毎に変わっていくんですけれども。それが、彼が幼稚園の時からお母さんが買ってきまして、スケジュール表を書くわけです。これがミソなんですが、その横に「成績の伸び一覧」と書くんですよ。成績というのは、たぶん1ヶ月で伸びるということはないんですけれども。母親の意気込みが非常にいいなあって思ったんですね。我が子への思いを託して、そういう名前をつけたんだと思うのですが。

 決してその教育熱心さは責められません。これは、今日参加された私を含めた多くの人が、やはり我が子の伸びを求めていくということ、これはもう否定し切れないと思うんですね。

 問題はここなんです。我が子の良いところしか見ないということ。だから、ダメなところとか、成績が落ちたとか、友達と喧嘩して先生から注意されたとか、そういうネガティブなところは我が子にはないというわけですよ。これが子どもには辛いんですね。いいところしか見れない、見ない。

 ですから、おやじ狩りなどの重大な犯罪で警察の問題になって、保護者と面接しますと、第一声が「これは何かの間違いだ」「私の子がこんなことやる筈がない」と。我が子のネガティブなところは否定してしまうんです。大体の親は「誰かに指図されてやったんじゃないか」と言うんですね。「そんなこと、我が子で信じられない」という反応を示します。

 これは非常に今後の親子関係を考える場合に重要なことを教えてくれているんじゃないかなというふうに思いました。

 そのことで私が思ったのは、今日は、これからお母さんになる若い方とか、幼児期から小学生のお母さんもいらっしゃると思うんですが、子どもという存在は、すべて親が期待している通り、いい面ばかりじゃないです。ところが、親とすれば、そう期待したいんです。自分もそうやってきました。

 子どもはそういうふうに親が喜ぶもの、大人が喜ぶものを先取りしてやってしまうんですね。これがいい子を演ずる中身の一つなんです。ですから、思春期になった時に、自我というか自分というものがなくなってしまう。大人が喜ぶものが善だという感覚で育ってしまう。大人はつい、そういう子どもを見ると、さすがは我が子だと大喜びしてしまう。
 これは、自分を含めた否定し切れない親の願いだとは思うんです。ただ、ダメな時もあるんだということ、これをやっぱり腰を据えて理解してもらわなければいけない。

■ダメなところも認める

 エースピッチャーあるいはスポーツ推薦で入ってきた少年が、レギュラーの争いに毎日すごくストレスを感じて、暴走という形で発散していたという事例がありました。
 それを見ますと、今、親も教師も一つ忘れているのではないかと思うのは、こういうことなんです。
 たとえば、Aという高校でエースピッチャーを集めます。そうすると、各中学校から中学時代のエースピッチャーが10人来るんです。そうすると各母校からの大応援団になる。それはそうですね、何々中学校出身のエースが甲子園に行くわけですから。これはもう中学校からすれば名誉なわけです。何よりも親とすれば、親のステータスを子どもが高めているんじゃないかと思うんです。客観的には誰もそう思ってないんですが、親自身はそう思ってしまうんですね。甲子園に出た選手の父親、東大に入学した子の母親ということで。そういう外からの形式的な評価、社会からの評価で、家庭が押し潰されているという気がしてならないんですね。
 話を戻します。それで10人が集まる。そうすると9人はエースになれないんですよ。単純計算をして。エースというのは一人しかいませんから。せいぜい補欠か、後で繋ぎとして出てくるぐらいです。そうすると後の7、8人、極端に言うと、9人はどうなるのかと。このことを忘れてしまっている。
 あまりにも学校も親も全体にスポーツが成績主義になってしまっています。教育の中の営みですから、ダメな時こそ教えてやらなければいけない。これが教育だと思うんです。ところが、親だったら正直言ってやっぱり認めたくない。私も親だったら認めたくないですね。やっぱりエースの父親でありたいと思いますよ。しかし、それではいけないなと思うんです。
 私はこういった臨床家の目で社会の皆さんにこういうことを話しして考えてもらおうと思うのが責任だと思ったものですから。臨床の場を離れて、社会の皆さんに臨床から蓄積された知見のお話をしているわけです。このことを是非申し上げたい。
 ところが、残念ながら、親切でないんですね。ダメな時、怪我をした時、病気をした時、いくら頑張っても技術が伸びない時、中学校の時は確かに速かったけど一定のレベルで成績が伸びないということ、これはあり得ることなんです。人生というのはそういうものなんですよ。でも、それでもいいんだということ。それでよいということじゃないですよ。一生懸命頑張ってもダメな時は、それでもよいということ。ですから、余裕というか、もう一つの場を残しておかないと子ども達というのは非常に追いつめられる、苦しい毎日になってしまう。
 「それは佐々木さん、怠け心を作るんじゃないかな」と言われますけれども、やる時は一生懸命やってもらいたいし、私はいい子そのものの存在というのを否定しないんです。一生懸命やっているというのは否定しないし、これを否定してはダメだと思うんです。
 暑い時は暑いで、一生懸命自分の体を鍛え、勉強する子どもというのは、これは優れている子どもだと思うんですね。ただ、必ずしもそれが大人が期待する結果にならないこともあるということ。でも、それでもいいんだということを子どもに言っておくことが必要なのではないか。仮に今あげた10人のうち、7、8、9人が客観的にそういう地位に置かれるわけです。非常に悩んだり、トラブルになって、学校そのものをやめてしまうという極端にいかないように、別な選択もあるんじゃないかなと。こんなことも考えて行ければいいかなという気がしてならないんです。

■親の期待通りに育つ子ども

 さっきあげたおやじ狩りをした少年の黒板の事例に戻ります。
 この子は3歳の時から習い事を始めまして、小学校も私立、中学校も私立なんです。背景には受験競争の問題があるんですが、親にすれば、一切の遊びは無駄だということで排除してきたんです。すべて放課後は親が管理する。これは大きな生育史の中での出来事だなと思ったんですね。
 では、他の「いい子」たちの生育史はどうなっているのかなあと思って、さっきあげた「いい子」に該当する子ども達を幼稚園のころから高校生になるころまでの生育史をずっと丹念に調べてみました。50例くらいです。
 共通することがあるんです。それは、徹底して親があるいは親を含めた大人が、遊びは無駄だという感じなんですね。余計なことだと。そんなことをするならば、習い事を一つでも多くやった方がいいと。こういう強い信念がある。それがまた子どものためになるんだという考え方です。
 小さい時から音楽、ピアノやスイミングと多くやっていいと思うんです。実際やって大変よかったという方もたくさん目にします。問題は、全てが親のもとで子どもを管理してしまうということです。もうちょっと余裕がなければなあと思うんです。
 余裕の中身というのは、小学校3、4年くらいから中学の1年生ころまで、ギャングエイジというのがあるんです。これは隣近所の子どもと親の目を盗んで秘密基地を作ったり、どろんこ遊びをしたり、女の子であればままごとをやってみたり、何くだらないことをやってるんだと思うんだけど、こういうような遊び、友達集団といいますかね、これをあまり意味のないことだと切り捨ててしまっている。これが「いい子」たちの生育史に見事に共通していることを見つけたわけです。まあ、ノーベル賞ものかと思ったんですが。あまりにも共通しているんです。我ながらすごい発見だというふうに考えました。
 親はというと、もう教育熱心なんです。一生懸命やるんです。教育熱心は学校の先生からも非常によい評価を受けます。あそこの保護者は一生懸命子どものために頑張っています、というふうに。
 すでに述べましたが、30年前に入った頃、非行臨床の教科書にそういうことは全然載っていないんですね。親自身も困難を抱えた親だというのが載っているわけですが、教育熱心な親だなどというのは教科書にないんですよ。本当に今、我々の臨床は困っているんです。どういうふうに理解していけばいいかと。
 それで、それを紐解くきっかけが教育熱心の中身かな、「いい子」の非行が一つの素材になるかなというふうに考えたわけです。
 それで、不思議なものですね、兄弟が2、3人いますと、一人はナイーブな内向きの子ども、もう一人は必ずガラッパチで親に徹底的に反抗していくという、兄弟でうまくバランスを取っているんですね。「いい子」の非行というのは、大体ナイーブで大人しくて素直な性格の子に多いというか、そういうことがあるわけです。
 ですから、皆さんお子さんを持っている方で、ガラッパチで何か言うことをきかない子どもを持っていたら困ったものだというふうに言われるんですが、私は逆にああ大分いいじゃないと。そういうふうに自分を表現している子は、全然親の言う通りにはならないで、親の言うことに反抗するけれども、これは自分を表現しているという点では高く評価していいと思う。子どもの視点から見ると。
 というのは、風船みたいなもので、絶えず吸い込んだら吐き出して一定の風船の空間を保っているわけですね。それが、親の期待通りに吸い込むばかりだと、膨らみ過ぎて、思春期になった時に自分というものが分からなくなる。あっち行ったりこっち行ったりしてしまう。そんな感じの状態になるのではないかと思っているんです。

■安心感のない家庭

 ナイーブで非常に優しい子どもというのは、つい大人がうっかりしてしまうんですね。今ある姿というのは青年期になった時、大人になった時に、決してそのままの姿にならないんです。長いスパンで見ますと、むしろ多少トラブルあるぐらい表現する子どもの方がバランスよく育っている。そういうことが多々目に付くんですね。これは、子どもを見る上で非常に重要な視点だと思うんです。
 ですから、立派な、「いい子」の女の人と「いい子」の男の人が結婚したら、立派な家庭になるかというと全然そうじゃない。また、そうである場合もある。だから、必ずそうなると言い切っていけないということなんです。
 それでは、そんなに教育熱心なのに何で子ども達が思春期になって心が塞がっているんだろうか。おかしいなあと思うでしょう。一生懸命熱心に黒板に書いて、今日の塾は何だ、スイミング、書道があって、何だ、とやってれば…と。親としては非常に情けなくて残念なんです。
 さっきあげたA君は、あまりひどいものですから少年院へということで審判で決まりました。その時にA君の母親は「13段頑張ってこうだったのか」と言いました。この言葉が未だに忘れられないですね。皆さん、何だと思いますか。13段。誰か分かる人いますか。「段」というところがヒントなんです。「13」というと金曜日とか悪い数字じゃないかと思うんですけれど、たまたま13なので、14でもいいんですよ。これは、書道何段、剣道何段といろいろの段を合わせると高校1年生で13段なんです。その結果がこれかということです。非常に象徴的な、母親の残念さ、無念さというか、期待に応えてくれなかった子どもへの思いが伝わってくるんですね。
 その思いを、皆さんに一般化してものを言う必要があるなと、私を駆り立てるわけなんです。
 では、何が問題かというと、安心感がないということなんです。家庭で安心感がない。これはさっきあげた昔からいる非行少年も安心感がないんですよ、家庭の中に。だから教育熱心も放任している問題の親も根っこは同じだということを発見したんです。子どもというのは、どっちにしても不安定でいつも緊張している家族というのが嫌いなのかなということが共通して分かるわけですね。
 問題の家庭というのは、いちいち言わないでも分かると思います。子どもを虐待してみたり、父ちゃんが酒飲んでくればパーンと家族に暴力をふるったり、母ちゃんがパチンコへ行って帰って来なくて飯はどうしたのとか、そういうことで子ども達は不安定な心だということは分かると思うんです。
 問題は教育熱心と言われる親の方なんですね。なぜ安心感がないのか。家庭の中で、絶えず断崖絶壁にいるような緊張の心をもたらしているからです。
 ある少年が言いました。「ママが喜んでくれました。父親にほめられました。そういう親の隠れた願いに応えられるよう、幼い心の中に絶えず責任を持とうとして健気に頑張って来ました。見放されたくないという恐怖感でした。」
 つまり、出来ないことを否定するわけですから、出来なければオレの子どもじゃないというわけですから、これは3、4歳の子どもには恐怖なんです。出来れば「ああ我が子、我が子…」となる。そうすると、いつの間にか今読み上げたような表現が子どもの中に生まれてくる。成績伸び一覧表というところが非常に苦痛だというのは、伸びないと喜んでくれませんから、これは当然ですよね。
 親からすれば自分の期待や願いを子どもに託すわけです。そのことは否定しない。この親たちと面接で何遍も話してきたんですが。つまり、自分が出来なかったことを子どもに代わりに成就させて、結局、○○の母、○○の父とさっき言いましたが、そういうことで自分の社会的ステータスを高める、これを子どもは見事に見抜いているわけです。
 ですから、教育熱心は、一見子どものためと言いながら、実は我が親のためというのが隠れた心理です。もし、こういう気持ちが皆さんの中にあったら、ハッと立ち止まって、ああやっぱりそうあってはいけないと思っていただければ、今日の私のお話するテーマの一つは達成されたのではないかと思います。

■親としてのあり方

 もう思春期くらいになりますと、子どもは子どもなんですから、我々親というのは子どもをサポートしてやるしかない。進路を決めることにしても、間違いないようにいろんな情報をたくさん子どもに与えるけれども、最終的に決めるのは子どもなんです。
 ただ、子どもというのは現状認識が甘いものですから、簡単に医者になったり、歌手にも俳優にもなれるように錯覚したりするので、そんなものじゃない、現実はこうだよと、そのためにはこうだよと、キチッと現実をリアルに教えなければいけない。これは親の仕事だと思うんです。しかし、最後に選択していくのは子どもであるということをいつの間にか忘れてしまったような気がするんです。
 さらに、個人の親を責められないような気がするんですね。これは我が国が戦後の中で、形をもって人を評価するという、車の大きい人は立派だ、でっかい家を持っている人は人格的にも優れている、給料が高い人もそうだ、それから大卒は中卒より偉い、その他いろいろ外から見えるステータスでその個人、家族というものを評価してしまっていんですね。
 確かにそういう見方もあるんでしょうが、でも、そういう外からの評価に対して、相対的に、それだけではないよ、それが絶対的じゃないよという気持ちを、また、自分は自分、私の家族は私の家族でいいんだということを言えるような、新しい家族づくりをどうやって進めていくのかというのが、今日、「いい子」の非行の子ども達が教えているテーマではないかなとというふうに思っているわけです。
 そうすると途端にですね、「佐々木さん、そんなに言ったって、何が目標になるんですか?」と。逆に私の方は「それはあなた達が考えて下さい。それぞれの家庭で考えて下さい」というふうに言わざるを得ないですね。ですから、何をもってベスト・ベターとするかは、夫婦、お父さん、お母さん、子どもも含めて考えればいいことだと私は思うんです。
 ただ、形式的なものは絶対ダメだからといって、それを観念的にダメだということは私は言わない。だから、勉強やスポーツができる人は頑張ってもらいたいし、どんどんその成績をおさめて欲しい。ただ、それが絶対的にあるべき子ども像なんだという観念はそろそろ卒業しないと、圧倒的多数の子ども達が息苦しい中で、ますます追いつめられていくのではないかと思います。
 私たちは長い間、子どもというのは「子宝」というふうにして、授かるものだという考えでやってきたのですが、最近の世代ではつくるものだ、つくれるものだというふうな親の方の考え方が出てきて、ちょっと人間の力を超えたものへの畏敬、畏怖の念を持っていることを忘れてしまっている。自分達でつくれるものだと。だから、子どももこんなふうにつくるんだと。こんなことを誰も不思議がらなくなってきた。だから、何歳までには国語の文字を教えて、何歳までには九九を教えてというふうにして、子どもの生き様、生きる姿を先取りして設定してしまっている。そこに今日の私たちを含めた親たちの考えなければならないことがある。「待てよ」というふうにあって欲しいと思います。

■遊び・自然体験の喪失

 先程、遊びがないと言いました。これはあちこちで言われていますが、子供時代がない子ども達が大量に育っている。子ども期の喪失ということが言われている。これは、ある子どもは非行という形で反社会的行動として表へ出ます。ある子どもは自分を責めて自分がこうならなきゃいけないとうちに閉じこもっている。これは非社会的行動なんですが、今日は、私は反社会的行動の専門家なものですから、そちらの方の話をします。
 子ども達の集団での非行の中に見ることができます。ワイワイガヤガヤとやっているこの「おやじ狩り」の中で典型的に見えたのですが、携帯電話、ポケベルを駆使して、さっき言った酔っぱらったおじさんを狩りに見立ててやってるんですね。
 我々人間というのは、生まれ落ちた時から攻撃性というのを持っている。そもそも我々の祖先というのは何千年何万年にわたって、縄文時代のように狩りをして食べてきたわけですね。ですから、幼児期は虫を殺したり、魚を釣ったり、きれいな花を折ったり、蟻を殺すようなことがあるんですね。あれはそのうち直るんです。それが自然体験なんですね。それが経験のないまま無駄だと切り捨てられてきた。これは大きいですね。
 私は文部省で平成6年から10年まで「児童生徒の問題行動等に関する調査研究協力者会議」の委員と中教審の専門委員でしたが、心の教育ということで提案したんです。次のことを話したんです。
 非行の事例から見て「いい子」たちのほとんどが遊びや自然体験、そういう小さい時の攻撃性を発揮できる体験がないまま、中学生、思春期になってきていると。これは発達的にも今の世代の子どもの抱えている教育問題だと。そんなことを喋ったわけです。
 それで総合的学習ということで、ふるさと・地域の自然体験をカリキュラムの中に入れていこうという話し合いのきっかけになったわけです。親たちが個別にできなくなってきているのであれば、学校教育のカリキュラム、教育システムの中に取り込んでいく必要があるんじゃないかと提案したところ、それが総合的学習の一つの素地になったように思われます。
 ただ、基礎学力がその分低下するということで、現場の教師からは悩みもあるようなことを伺っております。

■親と向き合わない思春期

 ところで、非行のピークは中学校や高校1年か2年の17歳頃までで、18歳になると何故か不思議に非行から卒業していくんですね。
 今、新聞等で17歳と言っていますけど、大体高校2年生の2学期頃からグンと大人になるんです。で、父親や母親を一人の夫婦として眺めるようになるんです。何故17歳の2学期なのか、よく分からないですが。それで、ああ、よくうちの夫婦これまでもったもんだなあとか、うちの父ちゃん、母ちゃんよく離婚しないで頑張ったなあとか、だいたい客観視して親をバカにするというか、相対的に親から離れて、一組の夫婦として親を見られるようになるのが17歳の2学期ころなんですね。
 話し余計になりますけど、離婚する時によく思春期の子どもを持った親御さんがいるんですが、家庭裁判所の家事部で夫婦離婚の調停などがあるんです。小学校の中学年くらいまではまだ親の言うままですが、思春期の時の離婚というのは子どもの心にぐーと深く痛手を残す。そうでなくてもこの年齢の子どもは、「うちの親は世界で一番ダメなんじゃないか」と親を否定する時期なんですね。11歳から16歳くらい頃まで。そうしないのはダメなんですよ。「いやーうちの親こそ立派な親だ」というのはかえって危ないんですよ。むしろ我が親を否定して、自分はこうだと言い表すのが発達的には健康なんです。
 だから、よく言うんですけど、離婚するならば高校2年くらいになるまで待ったらどうかと。そうすると、子どもの方も落ち着くからと。それだけ思春期というのは親を否定して自分づくりをする時期なんです。
 「いい子」の非行の一つの背景には、直接親にまともに向かっていかないということがあるんですね。これがまた一つの問題だと思うんです。自分は親の言う通りにならないぞ、自分は自分でやるぞとまともに言わない。思春期になっても「いい子」を演じる。そうでなくても親を否定しなければならない時期に、その思春期の仕事をやっていないということが大きいんです。悩まない思春期と言うんです。自分と向き合わない。
 これがとんでもないところに出てくるんです。本人なりにずっと成績を維持出来ない、親の言う通りにやりたくない、スポーツで頑張っている姿が維持出来ない。こういったことのストレスを親に正直に話し出来ないんです。こういう、自分のいい時も悪い時も含めて、話せる親子関係をどう作り出していくか、これが思春期と向かい合う親の大きな課題だと思うんです。
 俺ダメだった、成績が落ちた、スポーツが伸びない、そういった時に、「まあ、いいじゃないか。じゃあまた頑張ってみよう」これを親が言えるかどうか。これが子どもの思春期になっての安心感なんです。で、「成績が伸びるか伸びないか、頑張るかはお前がやるんだ」「親はサポートするしか出来ないよ。ご飯をちゃんとつくって洗濯物をやってあげるぐらいしか出来ないよ」と。実際そうなんですが。
 ところが、心配で心配でしょうがない。将来に期待してますから。そして、口出ししてこうこうと言う。で、「あなたのお婿さんはこういう人がいいよ」とか、「あなたのお嫁さんはこんな人がいいよ」と、そこまで口出ししてしまう。これでは子ども達の活動を抑圧してしまう。こういういびつな親子関係の中で溜まった憤懣を弱い者を攻撃するという犯罪を犯すことで心のバランスをとるようになります。

■家庭で大事な3つの条件

 「いい子」の非行に限らず、もう少し一般化して見たことを述べさせてもらいます。
 まず食事の風景ですが、今、お子さんいらっしゃる方、あるいはお孫さんいらっしゃる方は、私が是非やって欲しいと思うのは、家族がみんな集まってわいわいやる食事の風景です。非行少年の食事は孤食なんです。一人で食べる。時間を決めずに食べる。野菜とか果物を食べない。少年非行の食事を調査したある大学の先生の調査では、少年非行の食事というのは非常に偏っていると。中身と同時に、親が暖かい物を作ってやる、一緒に食べる、そしてコミュニケーションをする。そうして欲しい。何も改めて親子の会話をするのではなくてもいいと思います。私は忙しいお父さんだったら、週に1回もでいいから子どもと一緒に食事をする機会を作ってもらえればいいなと感じております。
 幼児期に童話とかいいものを読み聞かせる。これは習い事に追われている教育熱心な親が意外に忘れているんですね。そんなの無駄だと言って。そうじゃないです。将来に心温まるものが必ず残るんじゃないかなと思います。臨床の目からそう思うんです。そういう子ども達というのは一時の間違いで悪いことをしても、すぐに立ち直って普通の生徒に戻っていくんですね。ものすごく早く非行の回復をするんです。なぜ回復が早いかと見てきたんですが、やっぱり幼児期・小学校の時の親の良い本の読み聞かせなんです。
 これを言うとまた成績主義のような考えで、いっぱい読まさせなきゃいけないと思われると困るんですが。そういうことと関係なく、親の願いを子どもに伝えていくのに、良い本良い映像というのがあるのではないかと。
 それから、家庭行事。七夕とか端午の節句とかいろいろあるけれど、ああいうものはやっぱり人間の力を超えたものへの願い、情操、畏敬の念というか、家庭の中での行事というものが大事なのかなという気がしています。
 大体この3つ(食事・絵本・家庭行事)をいっぱい体験している子どもは、仮に思春期になって非行があったとしても非行の回復が早いですし、むしろ普通の子ども達以上に立派な子ども達になっていく。

■父親の機能・役割について

 最後に、父親の役割、機能についてです。
 重大事件を犯した少年について、これは私の「いい子の非行」とも関係あるのですが、最近、家庭裁判所調査官研修所で、「重大少年事件の実証的研究」というのを、これは新聞でも報道されましたけども、新聞に載ったような重大事件・殺人事件ですね、こういう子ども達の特徴を調べていったら、父親像が2つの両極端の父親になりました。
 1つは、全く父親がいるのかいないのか分からない。物理的にもいないし、いても子どもの養育には関心がない。共に父親と育っていくという体験がない。それで思うのですが、ほんのわずかですから、思春期になるまで、ぜひお父さんは身体を張って、泥んこになって子どもといろいろ体験をしてもらいたい。子どもというのは、思春期になると自然に父親から離れていくようになるんです。
 女の子の場合、非常に重要なんです。男の子ももちろん重要ですが。性的な逸脱、援助交際とかの事例をみると、全く父親との触れ合いがゼロなんです。これはもう断言してもいいぐらいです。本当にそうです。性的逸脱する女の子たちというのはそういう異性のまやかしの温かさを求めている。性的興味・関心があるとマスコミでは書かれていますけど、決してそうではなくて、父親からの愛情の代償を求めているのです。
 特に小学校中学年から高学年にかけて、女の子が独りぼっちというのは非常に危ない気がします。ワイワイガヤガヤやるギャングエイジ期の女の子というのはすごく大事なんです。その中で将来、異性とどう付き合ったらよいか、適当というか、間というか、付き合い方を子ども達同士で学び合っていく。そして、思春期になっていくわけなんですね。そういう学習訓練がないままポーンと異性へと関心が行ってしまうと、適当に人と関わる距離というかスキルが不足しているのです。
 男の子も女の子もそうなんですが、同性で徹底して友達と群れる期間が必要なんです。これは少なくとも小学校中学年から中学生にかけて、そういう体験を通じて異性というものを吟味していくわけですね。ですから、そういう意味では友達というのは非常に重要だと思うんです。
 是非、「あの友達とは遊ぶな」とか「勉強もしないで!」とか、あまり怒らないでください。まあ、あまりひどい友達だとやめさせてもいいけども、この時期の友達関係というのは、そういう面で将来の自分の新しい家族をつくっていく準備をしているんだということで、親の方も余裕をもってサポートしてもらえば有り難いです。
 さっきの女の子の援助交際の話なんですが、ほとんどの事例が見事に生育史が似ているというのがあるんですね。これは何故なのか。いずれ機会があればさらに研究してみたいなとは思っています。
 さて、話を戻しますが、もう一方の父親というのは教育熱心なんです。
 これは新聞にも報道されているから言わなくても分かると思いますけれども、ある重大事件の場合でも、親が専門職だったというのは結構があるんですよ。専門職がイコールまずいのではないんですよ。そうではなく、子どもの言うことを聞かないということなんですね。教育熱心のように見えるけれども、父親がすべて家族を支配して、母親も子どももそれに従って絶対的な支配権を握って、家族がそれに従属して一応安定している。
 こういう家族というのは、一見教育熱心な父親のもとで家族が協力し合っているように見えるが、絶えず緊張のある家族、結局こういうことなんです。
 父親というのは、両方の真ん中を取ればいい。要するに、自分の弱いところを子どもに見せていいんです。ところが、後者の父親は絶対に見せない。自分は絶対的な権威者ですから。自分がやってきたことが絶対ですから。
 そうじゃないんです。子どもというのは、そんな父親とは苦しくてやっていられない。ですから、自分の弱いところをどのくらい父親が見せられるか、自分が会社へ行って上司から痛めつけられて容易じゃないんだと。ただ、このところは頑張っているぞと。頑張っている姿も見せなきゃいけないです。
 要するに、子どもに自分の弱いところをオープンにして見せる。自分の弱いところを見せる人というのは、それだけ自分に自信があるということ。そこだと思うんです。
 教育熱心な母親というのは、徹底して自分の子どもを勉強さえ出来ればいい、しつけとかいうのは曖昧にして、とにかく成績主義で子どもを押さえつける。それに加えて、父親は今度は自分が立派だと言っている。これでは子どもは辛い。
 自分は今、社会と関わって一生懸命やっているぞと言いながらも、いやあ、おれは若い時は失敗ばかりして、現にこういうこともあって、今こういうことをやっているんだと、率直に言い合える方が子どもにはいいですね。言い合える父子関係が。
 ただ、次の3つは友達関係ではない絶対的な親として立ち向かう必要がある。もちろん母親も含めてですが。
 一つは命に関わること。たとえば、ナイフを持って歩くとか、免許を持たないで夜中にバイクに乗っているとか、女の子であれば、売春とか性的に逸脱しているとか。自分の心身を傷つけることは絶対に体を張ってでもやめさせなければいけない。
 2つ目は、他人の尊厳、人格を傷つける。これを親が一緒になって、あそこのデブね、あれはバカだからとか言っている親がいるけれど、それはダメ。そういう人の見方をしちゃダメとしっかりと言わなければいけない。
 3つ目は、犯罪。盗み、暴力などです。
 この3つは、もし我が子に前兆があれば、いかなることがあろうとやめさせなければいけない。
 後は、親自身が自分をオープンにして関わっていけばいいのではないか。こんなふうに非行の臨床からいつも考えているところです。

■3つの大切なこと

 最後に3つだけ言って終わりにします。
 今、思春期の子どもを持っている親たちがいると思うんですが、大変苦労されていると思うんですね。自分もそうだったから。しかし、まあ、よく親に歯向かっているなあ、よく育っているなあと思った方が気が楽でいいと思うんです。反抗しないで小学校高学年から高校生まで、女の子も男の子もあまり何事にもハイハイというのはかえって大丈夫かと、けしかけるわけではないけれども心配になります。「少しお前反抗しなきゃダメだぞー」というふうに言ってもよいと思ってるんです。
 それから、親の生活の内容を知らせなければいけない。非行少年の子どもというのは、だいたい親の勤務先を知らない。中には、「あなたのお父さんの名前どういうふうに書くの?」と聞くと、「分かんねえ」と言うのがいるんですよ。いや、本当かと思いましたよ。親の生年月日も知らなかったり、給料がどのくらいか、家がどのくらい借金を持っているか、親が教えないんですね。それから、農家の子でありながら、自分の家の田圃がどのくらいあるのか全然知らない、田圃に入ったこともない。そういう経済生活から子ども達は離れ過ぎているんです。
 だから、携帯電話が月5万とか、親にバイクを無免許で15万で買わせたりとか、女の子で言えばカードを使って親の前で買ってくれとか、現実の生活との緊張感のない生活の中に子どもがいるということはまずいと思うんですね。
 今の親の生活をよく話さなければいけない。思春期になったら必要なんじゃないかなと。それが意外になおざりにされている。「そんなことを聞くんなら、お前、1点でも2点でも点数稼げ」とか言って。いつのまにか子ども達から生活の臭さというかリアリティーとかを奪ってしまっている。勉強、点数ということもあって。もちろん点数もあげなければといけませんよ。でも、今言ったことは大事なのかなと思います。
 思春期の子どもさんについては、わがままと本当の要求というものがごちゃごちゃになっている気がするんです。これをうまく区別してやらなければいけない。わがままは他人から見て自分がどう評価されるか、これが自己の客観化と言うんです。客観視と言ってもよいです。こういう付き合い方も必要なんじゃないかなと思います。(終)
(水戸家庭裁判所土浦支部・日本生活指導学会理事)
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 参加者は一般の親の方、教員、学生、カウンセリングに関わる方などいろいろでした。ご参加ありがとうございました。かなり遠くから来られた方もありました。我が子のことで悩んでおられる方もありました。また、現役の家裁の調査官の方が話して下さることは珍しいということで、北海道の方の団体の方からも問い合わせがありました。
 親は日々我が子と接する中で考え、具体的な行動の選択を迫られています。子育てとは抽象論ではなく日々の実践です。佐々木光郎さんの非行臨床の実践に基づくお話からいろいろなことを学び、子育てに活かしていきたいものです。




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