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居場所を求める子どもたち


1997/09
■我が子の暴行被害体験から見えたこと…ゲーム感覚という異常性
埼玉県公立小学校教諭 佐々木 富孝

 「遅いね。」と、時計に目をやりながら息子の帰りを待っていた。時計の針はすでに夜の十二時を回っている。十一時過ぎに「今帰るから。」との塾からの電話があった。家から自転車で十分の距離だからとっくに帰って来ていい時刻だ。どうしたものかと心配しているところへ、息子のうめくような「ただいま。」という声が聞こえてきた。全く困ったものだと思いつつ、ふらふらと部屋に入って来た我が子の姿を見て、一瞬我が目を疑ってしまった。
 その顔面ははれ上がり、頭は変形してでこぼこ、内出血により頭頂部は異様に盛り上がり、左手首も骨折を予想させるように異常にふくれ上がっているではないか。

 これが、昨年十一月二十二日の深夜、三ヶ月後に高校受験を控え、塾での学習を終え帰宅した時の、中三になる息子の痛々しい姿だった。私はとっさに息子が何らかの事件に巻き込まれたことを悟った。

 その夜、息子が断片的だが思い出すままに語った事件のあらましは、次のような事だった。
「十人ぐらいの卒業生がいて(実際に十人いて、他校の卒業生が二名含まれていた)、その中の二人がわけもなく突然なぐりかかってきた。頭を守ろうとしたら髪の毛を引っ張られ、顔を何度もけり上げられた。そのうち痛みがなくなり頭がボーっとなって何もわからなくなった。気がつくと立たされて、『もうやらないから。』と言って握手してきた。ああ助かった、と思ったら、またなぐり倒された。僕は早く帰してくれと思うだけだった。殺されるかもしれないと考える余裕はなかった。腕の骨が折れたのは、よくわからないけれど、たぶん、倒れた僕の体の上に投げつけられた僕の自転車の金属部分が当たって折れたんだと思う。」

 私は、息子の話を聞いていくうちに、相手に対する激しい怒りが込み上げてくると同時に、このような暴力(暴行)は絶対に許すわけにはいかないと思った。それは、まず、無抵抗であること、そして、集団(実行者は二名だが)での弱者(年下)に対する暴力行為であること、また、このような攻撃が三十分以上にわたり執拗に繰り返されたということ、さらに、傍観者的立場にいた八人に対しては、共犯者的存在として道義的責任は免れ得ないと強く思った。行為内容を見ても、攻撃が頭部に集中、髪の毛をわしづかみにし、まるで、サッカーボール同様に頭、顔をけり上げる。握手して許すかのごとく「もうやらないから。」と言うかと思えばなぐり倒す。まるでゲーム感覚のよう、楽しんでさえいるようだ。人を人として見ない異常な世界である。

 そして、何よりも彼らが又、再び背後から襲って来るかもしれないという恐怖と不安に怯えながら、腕の折れた体で深夜の暗い畑の坂道を、自転車を押して家に帰ってくるその光景と息子の心象に涙を禁じ得なかった。

 理由なき攻撃…誰でもターゲットになり得た

 病院の診断書には、「頭部打撲、頭頂部血腫、左横骨遠位端骨折、約一ヶ月の加療を要する」とある。この頭頂部への集中攻撃に対し、その時の私は、我が息子に危害を加えた者たちの気持ちの中に殺意が存在したのではないかと疑わざるを得なかった。頭部以外に攻撃を意図的に加えた形跡がなかったからだ。(左手首の骨折は意図的攻撃によるものではなかったことが加害者によって後日明らかにされた。)さらに、ダメージを最も受けやすい部位に徹底的に攻撃を加えるという状況が実に場慣れしているというか、劇画やビデオの架空の世界とだぶって見えて、あらためてがく然としてしまった。

 息子の暴行に関わったのは、その春中学校を卒業したばかりの十人の少年たちだった。二人は高一、そのうちの一人は不登校状態だった。残りの八人は高校中退、無職、アルバイトなど、ある意味では毎日の生活を無目的に送っていた。すべての親が心配していたという意味でだが。

 事件当日、彼らは神社の祭りに集まって来ていた。この事件の発端は、ある中三の男子生徒Y君を呼び出すために、Y君の所在(電話番号)を知りたくて、そのためにY君の連絡方法を知っていそうな中三生を呼び出したことにあった。数人が神社近くの小学校に電話で呼び出されたが、誰も連絡先を知らなかった。実は、Y君は他の中学校へ通っており、ほとんどの子は最近のY君の状況を把握していなかったのである。もちろん、息子も小・中全く違う学校で付き合いはなかった。ところが、九時頃呼び出された子が、「僕はわからないです。ひょっとすると佐々木君が知っているかもしれないです。今は塾に行っているかもしれません。」と答え帰されたという。どうして佐々木君が知っているかもしれないと答えたのかは、一度その前の年の祭りで、Y君が息子に話しかけて来たのを見たからだとその子が後に話してくれた。当日の息子は受験の追い込みのため休日前の特別講習を一時間延長して受けていた。

 そこで、彼らの中の使い走りの二人がバイクで塾へ息子を迎えに行ったところ、塾教師に「佐々木君は、今勉強で会えないし、今日は遅くなるので帰りなさい。」と言われ、彼らはその場を去った。ところが、彼らは途中で待っていて、帰宅途中の息子を呼び止め、「家に電話したから遅くなると心配するし、Yのことは知らない。」とことわる息子に対し、「わかった。でも、すぐすむからちょっとだけ来てくれ。」と、自転車をバイクで前後にサンドイッチにし無理矢理S小の校庭につれていった。

 S小で待っていた彼らのうちの一人が、「遅い!なにやってた。」と威嚇するような大声を上げた。「塾に行ってました。」と答えると、「遅いんだよ。」と言いながら、突然殴るけるの問答無用の暴行を加え始めた。そこにもう一人が加わり、こともあろうに、「今日はYに会えないから、お前がYの代わりになれ!」と叫びながら、前述したような暴力行為を繰り返したのである。

 私はゲーム感覚とも言える彼らの暴力行為の異常性にがく然としたのだが、それ以上に、全く理由なき「Yの代わりになれ(身代わり)。」という彼らの自己中心的感覚に怒りを飛び越し、あ然としてしまった。ここまでやるのかと。そして、ここまでやれるのかとも。

 私は、このような理由なき行為に、無差別通り魔事件や女子高生コンクリート詰め事件、そして最近の神戸の事件などの共通性を認めざるを得ない。彼らがこのような理由なき行為(九時〜十一時すぎまで待たされたためのイライラやむかつきという彼らなりの理由があったにしても)を取ったのは、何が原因なのか。そして、このことが最も重要な事だと思うが、何のためにしたのか、このことを知らなければならないと思った。

 司直の手にゆだねるべきか否か…とことんつき合う

 部屋に閉じこもった息子、心労より睡眠をまともにとれない母親をかかえ、正直私はこの問題をどう解決していったらよいのか悩み、迷い、加害者やその親への怒りと憎悪の入り混じった精神状態が続いた。何人かの友人からは、「傷害罪として警察へ訴えるしかないのでは。」との答えが返って来た。私や妻は事の状況からそうするのが当然のような気にもなった。しかし、心のどこかでひっかかっていた。「罪をにくんで人をにくまず」という明快さではなく、やはり、何のためにしたのかという彼らの生きざまに関係して……。もちろん、彼らの反社会的とも言える問題行動は決して許されるべきではない事は重々承知していたのだが……。

 心の中の整理がつかず、迷いながらも私はとりあえず、警察へ状況の説明に行った。警察官の反応は以下のようだった。
@警察は心情部分は考慮に入れない。事実のみで判断する。
A訴えた方が報復行為はない。
B裁判の方が効き目がある。(強制的に教育する)
C中途半端はいけない。相手はもう訴えないだろうと思い、再発の可能性がある。
Dおたくの言う、相手と話し合ってという方法はきれいごとでなかなか無理。
Eいつまでも話し合いをすると、相手の反発もあり得る。金を払ってすぐ終わりにしたいという考えもある。
F警察を出しにして、金をいつまでも取ろうとする被害者もいる。(被害者の逆転現象)
G被害者の相談は警察は受けるが、加害者の更正のために被害者が相談する場はない。もちろん警察はしない。
H親の変化も難しい。だからこういう事件を起こしている。

 この警察官は実にもっともな事を言っていると思った。反面、話を聞くにつれて気分が次第に重くなっていった。それは、次のような話からだった。
「○○は、この前六月に鑑別所へ行って来たばかりなのにもうやっているのか。どうしようもない札付きだからな。今度(鑑別所へ)行ってもハクが付いたぐらいで舞い戻ってくるんじゃないのか。親と相談したところで、そんな子供の親なんだからどうしようもない親なんだよ。」という加害者及びその親への全否定的見解への強い反発を含んだ気持ちの重さだった。そして、この後、私の心の中にある考えが固まり始めた。

 事件当初、私の念頭にあったのは、なによりも息子を守ること、二度とこのような危害が及ばない状況を作り出すという一点にあった。そのためには、何らかの方法で彼らからの将来にわたる確かな保証を得る必要があった。
 そのための選択肢は二つ、「司直にゆだねる」か、あるいは「話し合い」かのいずれかだった。

 私は教師という仕事柄、これまでの多くの青少年事件に少なからぬ関心を寄せてきていた。また、私自身が関わってきた子どもたちの問題行動を通して見えてきたものもあった。それは、彼らの行為の内奥から発して来る私たち大人や社会へのSOS信号である。現象面からはうかがい知れない彼らの心の痛みでもあり、先に述べた「何のために」に関わることでもある。
 ところが、実際には我が子の事件に関しては、そのSOS信号が伝わってこなかった。というよりもキャッチする余裕を失っていたと言った方がいいかもしれない。親は我が子の事となると理性よりも感情の方が優先されがちだからである。ところが、警察での話を境に、私自身が変化(もっと理性的になったということか)してきた。私たち大人はともすると、子どもや青少年の問題行動を解決するために、「取り締まり」的発想を優先しがちである。そのことをはしなくも警察が明らかに見せてくれた。

 私は、人というものは自分の可能性を求めて一生懸命生きていく存在なのだという根っからの性善説で生きてきた。だから、「寄り添う」という発想は持つが、「取り締まり」的発想はどうも性に合わない。さらに、子どもや青少年が逸脱や問題行動を通してしか自己存在感を見出すことが出来ないという状況も散見してきた。そして、そのような状況を現出させたものは何かを問うて来たのだが、それが次第に明らかになってきた、私なりにだが。おそらく私たち大人や社会ではないかと。彼らはそういう意味で家庭や学校や社会からの被害者だと言ってもよいと。だからこそ、私たち大人が彼らの気持ちに寄り添い、彼らの内面との対話を通して、彼らに生きることの意味や生きる意欲を見出させ、高める支援者たる存在でありたいと願うのである。そして、彼ら自身が変化することがまさに我が息子を守ることでもあり、親として出来得る最良の方法だという結論に到達した。そして、司直の手にゆだねたところでハクが付くようなら、とことん彼らや彼らの親と付き合ってしまおうという考えが固まってきた。

 私のこの考えが完全に固まったのは、私と加害者の母親との電話のやり取りを妻に伝えた時の妻の同意である。
 そのやり取りは、
「私はもう疲れ切っています。中学校時代から問題を起こし、学校にも警察にも呼ばれ、卒業後も問題を起こしているのです。私は今も病院に通っているんです。ノイローゼ気味で、私にはどうしていいかもうわかりません。警察の方へ行かれてもうちは仕方ないと思っています。こんな親で本当に申し訳ありません。」

 我が子の事で、長期にわたる心労により、心気症的症状を呈するに至っている母親、我が子がどうなっても仕方がないとあきらめる親としての自信喪失、家庭崩壊寸前の状況を目の前に突き付けられた私たちは、加害者と被害者という大きな違いはあっても、親としての心の痛みは同じではないか。子を慈しむ親の気持ちはどの親も同じなのだから。であるならば、悩める者の痛みを共有し合い、子どもを見つめ直すきっかけにできはしまいかと問い直し、「話し合い」を選択した。ゥ親が変われば子どもは変わるゥ目の前のモヤに一条の光がさして来たようだった。

 見えてきた子どもたちの息苦しさ…SOS信号の意味するもの

 さっそく私は十人の少年たちとその親との話し合いを始めることにし、連絡を取り三回にわたって今回の暴力事件についてどう考えるか、そしてこれからの自分はどうありたいかなど、十四項目についての意見交換を行った。三回目は、午前母親、午後少年たち、夜父親というように三部に分け、重なり合う時間帯を設けて、母と子と父の話し合いも行った。

 はじめ、少年たちの中に問題が大きくなってしまったことへのとまどいの表情や、自分は直接手を下していないという責任回避も見受けられたが、話し合いが進み振り返りを行っていく中で、傍観者的な立場がもたらすものは何なのかを見つめるようになっていった。少年たちの中には、この後仕事を始めた者や、今春定時制高校へ通い始めた者も出て来た。

 私が喜びを感じた事は、お母さんたちの中から、
「これも何かの縁、佐々木様には本当に申し訳ありませんけど、雨降って地固まるということわざもありますように、良い方向で考え、子どもたちを見つめていきましょう。そして、私たちも一人で悩まないで私たちのネットワークを作って協力して行きましょう。」
という前向きの呼びかけがあったことだった。

 実は、私はこの会に父親の参加を期待していた。当事者が少年(男の子)であるということもあるが、それ以上に、家庭における父親の存在が気になっていたからである。
 残念なことに(予想はしていたのだが)父親の参加は半数にとどまった。子育ての大部分を母親に依存している現実から当然のことなのだろうけれど、父親の出番がこのような非日常的な事件の場合ですら準備されていないことに、父権の衰退という思いをいっそう強くせざるを得なかった。

 十一月二十九日から、私宅で二少年と親と私たち夫婦との話し合いが始まった。親子別々の、週に一度の話し合いは三月いっぱい四ヶ月間続くことになる。つまり、息子の卒業を一応の目途として。

 直接加害者となった二少年の出会いは小六の頃。学校も違い、住んでいる市も違っていたが、たまたまゲーセンで遊んでいた時大げんかになり、けがをした一方の少年が七人組をつくりつけねらっていたところ、中一になって神社祭りで偶然出会い、「この前けがをさせて悪かった。」とわびを入れて仲直りした。
 その結果、相方のグループが合流して拡大し、中学校も違うため行動範囲も二市二町に広がり、喫煙、飲酒、万引き、暴力、恐喝、深夜徘徊などの問題行動がエスカレートしていった。

 少年たちは口数が少なく、とまどい、終始うつむいていた。三回目あたりから安心感からかこれまでの振り返りも含めていろいろと話し出した。少年たちは家も家庭もつまらないと言う。一人の少年(これからは一少年とその両親との内容を中心に述べていく。)は、生育歴を次のように語ってくれた。

 「オレの母親は教育ママっていうの、スゲーンだよ。小学校の頃、算数の「時計」の勉強がわかんないので、遊ばせないでずっと勉強させんだよな。わかんないとオレの髪の毛持って部屋中引きずりまわすんだ。父親はちょっと気に入らないとすぐ暴力、オレだけじゃなく母親もぶっとばされてた。オレ二歳の頃のことなんだけど、そう、オレの誕生日に母親がケーキを買ってきてくれたんだけど、テーブルの上のケーキの生クリームを兄貴が指でちょっとなめたら、そのテーブルひっくり返しちゃってさ、オレふとんの中で泣いてたんだ。とにかく父親はいばっててて、オレたち小さくなってた。父親は柔道ならってたから、オレが悪い事すると技かけて部屋から庭へ投げとばすんだ。この前なんか腰が痛くて一週間まともに動けなかったんだぜ。だから、オレ、父親に殺される前に殺してやろうと思って部屋に木刀置いてんだ。
 学校はダチがいるから行った。オレ、勉強はできたんだ、三年生くらいまでは。でも、オレの母親って教育ママだから、勉強しろってうるさくて、しつこくて、むかついて途中でいやんなっちゃって、勉強つまらなくなった。ほとんど遊びに夢中になって、高学年からは全然ダメ。中学校も同じ。中三の時なんかすごくイライラしてたから、下級生(二年生)を屋上へ呼び出して、一人ずつぶんなぐってやった。PTAで大問題になったあれ。警察が来て、親も何度も呼び出されて、その時からかな父親が、「もうお前はあきらめた。」と言って、一言も口をきかなくなっちゃったのは。家の中の勘当ってやつ。先生なんか、勉強わかんないとバカ呼ばわりして、オレ本当にバカなんじゃないかと思ったけど、腹立って先生ぶんなぐってやった。それも腹立ったけど、オレ本当はさびしかった。先生毎日忙しそうにしていて、話ちょっとしようとしても、「あとで。」と言って相手にしてくれなかった。親にはぶっとばされるし、先生は相手にしてくれないし、ダチだけだった、信用できたのは。
 高校はみんな行くみたいだから行こうと思ったけれど、全然勉強してなかったし、面白くもなかったから、途中であきらめたんだ。こいつ(もう一人の少年)なんか受けたけど、親のためにね、でも白紙で出したんだってさ。
 卒業したらバラバラでダチもいなくなったから、チーマ族(四十人規模、新宿中心に行動、二名暴力団員がいた)に入って、タバコと酒買って駅のホームで酒飲んで騒いでた。こいつなんかショーチューのボトル一本一気飲みしてぶったおれてケイレンしちゃって、こいつ死ぬんじゃないかと思ったこともあった。
 バイクは何台盗んだかわかんない。もちろん免許持ってないからおまわりに見つかったらバイクほうり投げて走って逃げた。けんかは、でっかいのを十回以上やって、オレ大怪我してるんだ。暴走族とはやらなかった。シ埋められるサって聞いていたから。オレ、来年女の子と一緒になるんだ。親とはいっしよにいる気はない。だからちゃんとした仕事見つけなくちゃなんないんだ。」
 と言って、彼女と池袋のサンシャインで写したというプリクラを一枚くれた。

 彼にとっての家庭とはどんな場所だったのだろうか。勉強勉強と追い立てられ、日常的に虐待を受け、家庭は彼にとって安全な場でも癒しとしての場でもない。彼の心の中に確実に育っていったのは、残念なことに親への不信感と殺意だった。
 そして、学校はどうか。先生にバカ呼ばわりされ、無視されて、ここでも精神的虐待を受けている。学校は少年にとって居場所ではなかった。あったのは少数のダチと疎外感のみである。

 彼らはとにかく早く大人になりたいと思っていた。彼らの服装を一目見ればそれとわかる。アルマーニとか、グッチとか、○○とか、私などの手の届かない高級ブランドの何万もするネクタイや十万以上のスーツ、二万もする靴を身につけ、自己満足と共に大人を主張しながら、かかえる内面の空虚さを埋めようとしていた。「オレなんか着ている服の方がオレより高いんだよな。」と、本音とも自嘲ともとれる表現だが、外見を飾れば飾るほど、内面は卑屈になっていく……。女の子といっしょに生活することで、頼られる存在としての自分を認め、大人として他人に認められ、あるいは親とそういう形で対等になりたいという彼の心の中が透けて見えて痛々しいほどだった。

 彼らはしかしゆっくりだが、確実に変化のきざしが見えてきた。人を信頼することが出来そうだという気持ちが伝わってきた。初めはうつむいて、決して目を合わさなかった少年たちに笑顔が現れ、言葉としての自己主張と肩の力の抜けた冗談もかわすようになり、二時間という懇談が三時間以上になることもあり、本音を語るようになっていった。話を聞いてくれる大人がいるんだということに、少年たちは驚いたという。しかも全く説教じみたこともなく。

 私は彼らと関わるにつれて、彼らを丸ごと受け入れ、彼らの話に共感し、そして時々だが、彼らの打ち明けるもろもろの悩みの本質を明確にして、彼らに返してあげるという営みをいつしか始めていた。妻も三回目から彼らと会うことが出来るようになり、変なもので、私たちは次第に彼らをいとおしくさえ思うようになって、次はいつ会えるのかなと、カレンダーにつけた印を見てはつぶやいていた。

 彼らはずいぶん背伸びしているけれど、まだまだあどけなさの残る少年たちである。私は少年たちと付き合って、大人が心を開いて接すれば子どもは心の扉をいつでも(いつしか)開いてくれるもの、つまり、大人の接し方次第で子どもは良くも悪くもなる存在(可塑性)であることを学んだ。実感として。そして、問題行動というのは、実は私たち大人に対する彼らからのSOSの信号であり、チーマ族に加わったのは、彼らの所属欲求によるものであり、居場所がそういう場所にしか彼らに残されていなかったということに他ならないということも彼らは教えてくれた。彼らの暴力行為について、何のためにしたのか私は知らなければならないと思ったが、彼らの語る言葉の端々からそのことが理解できたように思う。

 この事件をきっかけに、二人の少年はバイクの免許を取得し、働きながらA定時制高校受験をめざして歩み始めた。

 親として、夫婦として、一個の人間として

 A少年の父親は私の家では実に居心地の悪い日がしばらく続いた。母親がこれまで一度も口にしたことのない夫への不満を突然、まるでダムが決壊したかのようにとどまることなく話し続けたからである。結婚以前の幸福感から一転しての結婚後の違和感と抑圧感、子育てに対する不一致、そして、合理的だが余りに細かい指示命令による圧迫感、反面、依存心が強くそれゆえ頑固で民主的でない父親。母親の子育てに対する自信喪失は、自己中心的な父親に対する不信感に根ざしていることが明らかになっていった。母親は、「私が何かしら手に職を持っていたら、とっくに離婚していたわね。」とも語った。夫婦の話を聞いていく中で、何となくこの夫婦の共依存的関係を感じることもあったが……。そして、会社人間(父親自身もそう語っていた)で、帰宅しない日が週に何度もある父親ゆえに、子どものことで相談したくてもできず、悩みをかかえ精神的に追いつめられ、ぎりぎりのところでかろうじて生きている母親像が浮かび上がってきた。

 私はかつて、これほどまでに攻撃的でとどまるところのない不満や批判の言葉を耳にしたことがなかった。私は二人の少年たちともそうだったのだが、話し合い(初めはだんまりに近いか不満が噴出する)の交通整理のような役割を果たしてきた。しかし、この時の私は、交通整理どころではなく、まるで暴走する車に翻弄されていたと言ってよい。さらにこの時、夫婦の大きな危機をも予感させられたので、私は父親と二人だけで会う機会を持った。そこでの父親の話から、今の父親に共通すると思われる問題点がいくつか浮かび上がってきた。

 四十九歳。サラリーマン。会社では部下を従え、重要なポストについている。いわゆるやり手、仕事能力に優れており、現在の社会的地位を自力でつかんできた。東北の港町の漁師の息子として生まれ、二歳で母を病気で失い、父親の仕事柄兄弟は親戚にばらばらに預けられ、苦労して育った人である。母親を乳幼児期に失ったことが強い依存的欲求とその反動としての頑固さ=暴力的気質を身につけさせていったようだ。それが、現在の家族の緊張感の高まりと結びついているようにも思われる。そして、実の父親との日常的接触も望めず、自分の思いや悩み、そして甘えさえも自分自身で処理することより仕方なかったという。このように、他者との人間関係づくりの基礎が未成熟なため、いつしか会社の論理を家族の人間関係に持ち込み、上意下達の支配権を確立していったとみえる。

 ところで、私は父親を弁護するという意味ではないけれど、世の父親が最も苦しい生き方を強いられているのが現代ではないかと時として思うのだが、少年の父親の話を聞いていくうちに、その感をいっそう強くした。
 私は少年の父親が特別な人間だとは思えないのだ。多くの父親(特に中年期)が会社(職場)の論理を我が生きる論理としているのではなかろうか。少年の父親の言う「会社人間」といわれるゆえんである。さらに言えば、決して少なくない父親にとっては、実は会社が「家庭」的存在にさえなってしまっているのではなかろうか。金太郎アメにはなりたくないと受験競争よろしく、立身出世のために家庭を顧みない父親、そうかと思えば一方では、帰宅拒否症候群といわれる家庭に居場所を見出せない父親たちの存在。そして、そのような親に育てられた子どもが今若い親となっている。

 夫婦が両輪のように回らないちぐはぐな関係、ここ二、三年倍増傾向にあるアダルトチルドレン(幼児虐待)、古い価値観と現代の多様な価値観との間で、若い親たちは新たな悩める人生を歩み始めている。本来、家庭というものは家族にとって、最も安全で心が癒される開かれた場であるはずなのだが、はたして現実はそうなっているのだろうか。

 二組の夫婦は対照的で、例えれば厳格と放任、話し合いも好対照、喜怒哀楽豊かに懇談が積み重ねられた。親たちは異口同音に子どもや夫婦、仕事や人生、そして世の中についてこれほど考え語り合ったことはなく、自分自身をじっくり見つめることが出来たと語っていた。きっかけは問題を起こした我が子だったのだが、親自身の振り返りとこれからの変化の糸口となる場であったことは確かなようで、そのことは私たち夫婦にもあてはまることだった。気を配ったことと言えば、お茶のお代わりと十一時、十二時に及びがちな話をどう切り上げるか、あとは話の交通整理だけだった。それが本音で語り合えたという点で良かったと思う。そして、何よりうれしかったのは、父親の暴力がその後家庭から影をひそめていったことである。よほど妻の批判が身にこたえたのか、父親の生き方の変化を認めることもできるようである。

 二人の少年たちの母親が少年たちのように仲良しになった。ほとんど外出しない(出来ない)母親がいっしょに買い物に行ったり、食事やお茶に出かけたり、お互いの家を行き来したりするようになったという。母親の立ち直りが意外に早く始まったのも、痛みを共有し合い、本音で語り合えたからなのだろう。

 一個の人間として存在し、生きていく場面が親であっても、否、親だからこそ今必要なのかもしれない。妻の自立という意味でも。
 親が変われば子どもも変わる、そう信じられる光景であり、一方で、親と子の本当の対決(生きるということ)の静かな始まりを予感させられた。

 開かれた家庭・学校・地域をめざして

 私は少年たちや親の発するSOS信号を読み取っていくうちに、ひょっとしたら、彼らこそ現代社会の歪みを告発しているのではないかという思いが強くなっていった。

 前にも述べたように、家庭というものは、特に子どもにとっては最も安全で癒しの場でなければならない。ところが一九六〇年代以降の高度経済政策は、社会のみならず家庭や学校にまでさまざまな歪みを生み出してきた。例えば、労働力の都市集中による核家族化と少子化現象は、早期教育(最近では超早期教育とも)の例のように、子どもの発達や成長を無視した子育てを押し進め、子どもたちに親の期待を背負わせ、その期待に応えようと子どもたちは必死に良い子を演じ続けている。その結果、少々乱暴な言い方だが、少なからぬ子どもたちが家庭内暴力や不登校などの非社会的行動や、非行、問題行動などの反社会的行動によって、かろうじて自己を守っているという現実を生み出している。(不登校や問題行動が家庭に原因しているとは決して言い切れない。私は学校教育や社会の反映などより深刻な様々な要因があると考えている。)

 学校教育もしかりである。少年は、「勉強がわからなくなった。」「先生は忙しくしていて、話もろくに聞いてくれない。」と訴えていた。なぜか。教師の一定の責任を免罪するつもりはないが、現実には教師の人間性云々という段階では解決し得ない教育の構造的問題が存在している。

 学習指導要領による教科内容の過密化は、勉強ぎらい、わからない子を生んできた。新学習指導要領(すでに「新」とは言わないが)によって、より一層拍車がかかってきている(五日制とも関連して)。そして、わからないのも「個性」とする新学力観、さらに、中高一貫校による受験競争の一層の低年齢化という教育課程や教育システムの問題。一方で、子どもの権利を無視した体罰、いじめや不登校、さらに教師の多忙化による子どもと教師との関係の希薄化と教師のバーンアウト等々。子どもたち同様、教師たちも追いつめられ、疲れ切っているのが現状である。

 そして、資本の論理は、人々に世の中は金と物が最優先されるのだという意識を植え付け、さらに、地域共同体の崩壊をも引き起こし、その結果、異年齢集団の消失や地域の教育力の衰退をも促進させてきた。

 ところで、私は先に、教師の一定の責任を免罪するつもりはないと述べた。教師による体罰やその他の反社会的行為は断じて許せるものではない。では、体罰はなぜ起こるのか。教師の管理的発想の現れである。それは教師自身が管理されているという意味でもある。

 私は常々教育内容に関しては管理はなじまないと考えてきたのだが、教師と子どもが対等の関係に立つことこそが今の教育のさまざまな問題を解決していく出発点になるのだと思う。
 例えば、ごく身近な例として、子どもたちの名札を外すこと。子どもの胸についている名札を見て話すのではなく、子どもの目線に立って話をする。名前がわからなければ聞けばよい。リレーションとしても大いに有効である。私の職場では名札はない。もちろん体罰も厳禁である。「どならないこと、子どもをさん、くんづけで呼ぶこと」を確認し合っている。そして、大人の都合で子どもと接しないことも。

 さて、そのためにはどうすればよいか。教師が「自由」であることである。上からの管理体制の強化によって、孤立を余儀なくされている教師が、生き生きと子どもたちと関わっていくことが可能なはずがない。教師一人ひとりの意見や考えが尊重される民主的な職場や教師集団をつくり出していくことが、今まさに求められているのだと痛感する。そのためにも、父母や地域との連帯が必要なのだと考える。学校教育や教師に対するバッシングが起こるたびに、学校はますます閉鎖的空間となってきた。そして、子どもたちへの管理がますます強化されていく。悪循環である。それを断ち切るのは、私は例えば諸外国のいくつかの営みのように、学校運営も含め父母との協同による教育の営みが必要なのではないかと考えている。

 しんどいけれど、しんどいからこそゆっくりと

 さて、息子は心配された不登校、悪夢、人間不信などのトラウマ(心的外傷)もなく、無事中学校を卒業し高校へと進学した。親たちは息子に会って謝罪したかったようだが、私は息子の判断にまかせた。家での話し合いの時は、いつも二階にいて顔を合わせなかったが、三月の最後の話し合いの時、親たちと初めて対面した。親たちの安堵感はいかばかりのものだったのだろうか。母親たちの指が目頭を押さえていた。

 折りにふれて、息子には話し合いの様子を伝えてきた。少年たちや親たちの話し合いについては同意を得てはいたものの、彼の屈辱感は想像に余るものがあったに違いなく、息子のケアの一つとしてもこのような問題解決の方法をとったのだが、どれだけ息子の理解が得られたのか、多くを語らないゆえに想像する以外になく、精一杯の親の姿を見てもらうしかないと思う。親の生きる姿が子どもの生き方に少しでもプラスになればよいと今では思っている。

 私は体験を文字として表すつもりは毛頭なかった。しかし、神戸の事件の報道の余りにも強すぎる現象面へのとらわれと、少年法改正などという短絡的な動きに現代の病根の噴出を見たようで、いたたまれなかった。自己の問題として考えたならば、違った発想が生まれるはずである。
 人を変えることは本当に難しい。だからこそ、人と人との人間関係づくりが家庭でも学校でも、地域や社会でも大切なことだと思う。
 親と子が手をつなぎ、親と子と教師が手をつなぎあって、そして、地域の人々と共に有機的につながっていく。理想でしかないと言われるかもしれないけれども……。

 私は、今回の問題をきっかけに問題を抱えながらも一生懸命生きている人たちと出会うことが出来た。「非行と向き合う親たちの会」「不登校全国連絡会」そして、地域のネットワークづくりをめざす「ニコラの会」や「まわりみち」などに参加して学ばせていただいている。そして、地域では職場の仲間や親たちと「子育て懇談会」でさまざまな教育問題について学び合っている。

 私は先に多様な価値観という言葉を用いて現代の若い父母の新たな悩み(葛藤)が始まったと述べた。個人主義的な生き方の模索もその一つであり、時として利己主義がその中に併存し、他者との人間関係の障害となって現れることがある。実は、この問題と共に関わってきた妻が、残念なことだが六月中旬より病欠状態に入った。前述したような、家庭や学校のさまざまなひずみの中で問題を抱え、その解決方法として利己主義的な価値意識を前面に出さざるを得なかった親との十分な共通理解が得られなかった心労による、一時的タイムアウトである。

 心配して電話をかけてくる妻の友人、知人に対して、私は「ただ今充電中です。」と申し上げている。不登校がどの子にも起こりうるように、大人にも往々にして起こり得ることぐらい考えているからだ。今、犬のマルチーズ(病休に入る直前に知人よりゆずり受けた)の赤ちゃんが毎日アニマルセラピーの役を果たしてくれている。
 人生、山あり谷ありとわかったような口をききながらも、今の自分にとっては結構しんどいのも事実である。しんどいからこそ、ゆっくりゆっくり家族や仲間たちと歩んでいきたい。

 親・大人が変われば子どもが変わる。そして、私たち大人の「居場所作り」が子どもたちの「居場所作り」を約束してくれると思う。そのためには私たちの歩みが社会を変えていくのだという展望を共有し合える人間関係作りが求められているように思われてならない。

 二人の少年との関わりを通して実感したことなのだが、私は今の子どもたちの感性はかつてないほど豊かであるという事実を大切にしたいと思う。と同時に、豊かな感性だからこそ、壊れやすいのだということ、そして、子どもたちの引きこもりやいじめ、非行などの行為は、彼らの感性が豊かであるがゆえの、息苦しい現実社会へのアンチテーゼであるということも……。



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