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本当の教育はテストの後に始まる


2002年11月09日
本当の教育はテストの後に始まる − 絶対評価は正しく活かされたか −

◆絶対評価という名の相対評価

 10月10日、東京都教育庁は絶対評価が導入された今年度1学期の成績をまとめて公表しました。その結果はほぼ予想された通りのものですが、絶対評価の曖昧性・恣意性がより明らかになったように思います。第一に、なぜこういう評価になったのかということに対する説得力がありません。

 絶対評価という名の相対評価、つまり絶対評価とは言っていても中身が相対評価そのままであったり、相対評価をなぞる形で評価したものも多いようです。
 絶対評価をするには、個々の生徒の学習内容やその変化の過程を的確に把握していることが必要ですが、現在の学校では総体で評価することには慣れていても、個々人の全体を把握して評価できる体制にはありません。そういう状況下では、たとえ絶対評価という形はとっていても、中身は相対評価とあまり変わることはないことになってしまいます。

 このことは、評価した先生に個々の生徒についてどのくらい学習内容を具体的に把握しているか質問してみれば明らかになるでしょう。今回、図らずも相対評価による配分と全く同じ割合で絶対評価をつけていた学校が明らかになったということは、そのことの例証と言えます。都教育庁ではそのような評価をした学校や「1」や「2」の割合が配分的におかしい学校を指導すると言っていますが、そもそもそのような恣意的な評価が可能なこと、分布的にほどよく散らばっているべきだという発想そのものが問題であるはずです。それが不問にされたまま、そのようなものがあたかも個人の絶対評価であるとされてしまうことの方が、相対評価の問題よりも根が深いと言えるかもしれません。

◆評価は何のためにあるか

 ただ、忘れてはならないのは、評価そのものよりもっと大事なことがあるということです。それは、評価の後に何をするか、しなければならないかということです。
 評価は今までの努力の結果にしか過ぎないものです。大事なことは、その結果「1」とか「2」とか判定された生徒がいたとしたら、次に教師は何をするか、しなければならないかということです。

 結果だけを生徒に示して、それで終わりであれば、それは教育ではないと思います。単なる裁定者に過ぎない。しかし、今までの公立学校での教育指導はここで終わっていたのです。忙しいとか部活指導があるとかの理由のもとに。

 テストは何のために行うのか。そこさえも今の学校教育の中では適正に了解されていないのではないのではないでしょうか。テストは単に生徒を評価し、順位付けするためのものではないはずです。授業の中で、生徒はどれだけ理解したのかを探ると同時に、教師としては生徒の理解を得られるような授業であり得たのかどうかも評価する手掛かりでもあったはずです。さらに、今後どういう授業を組み立てていけばよいか、理解の十分でなかった生徒にどう対応すればいいかをも考えるものであったはずです。

◆評価の後に本当の教育がある

 現状の学校教育では、この評価の後に何をすべきかという観点がすっぽりと抜け落ちているように思います。テストをやり、結果を出して、「はい、おしまい」という感じです。出来ない子はできないまま放って置かれています。もちろん、出来る子に対しても対応は必要に思います。その意味では、本当の教育はテストの後に始まる、とも言えるわけです。
 ところが、テストが終わってしまえば、そこで教師としての役割は終わったかのような教育が学校ではまかり通っているわけです。

 多くの親達が勉強を学校だけに任せてはおけないと考える最大の理由がここにあります。事実、学校教育の現状は親たちの懸念する通りなのです。一体、どれだけの子どもたちが学校の授業だけで満足のいく学力を身につけているのでしょうか。受験塾が過熱していて、かつての学歴・学校神話が半ば崩壊しているにもかかわらず、少子化の中でも一向に冷める気配を見せないのはこういう現状があるからです。

 実際、このことを最も理解しているのは公立学校で働いている先生方自身かもしれません。公立学校の先生の子息のうち進学塾に通わている割合は、一般の家庭よりもかなり高いはずです。公立学校に勤務されている先生方自身が公立学校には通わせたくないと思っている現実があるのです。

 ここを改めない限り、本当に学力の向上は望めないでしょうし、学校教育が学習塾等での補完がなければ成り立たなくなっている原状を本当に変えることにも繋がらないのではないでしょうか。




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