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日々の往還のはざまで


2002/12/05
■日々の往還のはざまで 〜 出会いの中で拾ったものを書き記すこと 〜

■日々は出会いであり、また別れです。雲も風も流れゆき、一つとしてとどまらない。人との交流もまたしかり。私たちは滔々たる時間の流れの中で、絶えず変化し続け、変化し続ける者同士が出会い、そして分かれていきます。まさに生々流転の人の世です。このようなことを古人も多く書き記しています。
「行く川の流れは絶えずして…」あるいは「セーヌは流れ、私はとどまる…」といったように。
 しかし、では、日々の出来事は、流れ行く川の泡沫に過ぎないかというと、そこにはやはり個々人、生のドラマがあり事件があるはずなのです。むしろそのようなものの集積が一つの「人生」というものを象っていくのではないでしょうか。
 そこで、忙しければつい見過ごしがちなもの、そこに焦点を当て、書き記しててみたいと思います。日記ではありませんが、なるべく日々書き続けていくことに意味があるかもしれません。

■つい最近、日常的に行われていた学校での悪ふざけやからかいが高じて一人の生徒が一時的に不登校になる出来事がありました。学校はそれについて、関係した生徒たちを自宅謹慎にするなどの厳正な措置を講じたのですが、そんなことから、学校の先生はどれだけ生徒の内面の問題を把握しているのかな、とふと思ったものでした。茶髪や服装の乱れには敏感ですが、どうも形でとらえていることが多いのではないかと思ったりもしました。
 考えてみれば、学校には不登校になった子は勿論のこと、問題になった生徒も来ないわけで、(もちろん、反省文を書かせるなどの把握はしますが)学校の先生は問題を抱えた子とは日常的に接していないわけです。不登校にせよ、問題のある生徒や非行に走る生徒にせよ、これだけ子どもたちの問題が深刻化しているにもかかわらず、学校の先生の理解が表面的な知識の理解にとどまっているのは、そんなことも関係しているのではないかと思った次第です。

■名古屋刑務所の看守たちによる受刑者への暴行・致死事件について、12月1日付け朝日新聞の「私の視点」欄に、作家・歌人の小嵐九八郎さんが、「三大屈辱かつ恐怖の仕置き」について自身の実体験を書いています。「出所後、他人との会話が困難となり、何より精神が壊される。人間が人間になす現代のいじめの究極の『芸術』であろうか」とも書いています。法を司る組織の中で最も不法で非道なことが行われていたのです。
 これを見ると、その国家が本当に民主主義国家としてどれだけ成熟しているかということが見えてくるように思います。これが日本の国の暗部としての一つの現実であるのはもはや否定しようがないでしょう。そのことが、結局は何らかの形で子どもたちの現実にも影響していないはずはないと思います。




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