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五感生活術


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『五感生活術』 −眠った「私」を呼び覚ます− 山下 柚実 著 文芸新書(690円+税)

 現代を生きる私たちはいつもどこかで満たされない思いを抱きながら生きている。何かを喪失してしまったという感がどこかにある。それは何なのか。その根拠を人間の五感、つまり臭覚・触覚・味覚・聴覚・視覚に焦点を当てて明らかにし、身体感覚呼び覚ますことの大切さを勧めているのが本書である。

 たとえば臭覚。かつて私達の生活の周りには様々な匂いがあったが、今や臭いや匂いを極端に排除し、一方では香りを求めるようになった。だが、匂いは生命活動と密接不可分な関係にあり、記憶や感情を司る脳の部位、海馬や扁桃に直接到達するという。匂いの拒絶、つまり無臭化の傾向は、他者や自分と異質な存在を受け入れる許容量が極端に少なくなったこと、つまりは人と人とのコミュニケーションの希薄化と重なっていると筆者はいう。

 たとえば触覚。生まれたての赤ん坊は母親の乳首を含み、肌に触れることで外界と自分を認識する。触ることはコミュニケーションの原点であり、基本的人間関係の形成の基礎となる。いわば心の教育の土台はここで作られる。そして身体的発達にも影響する。ところが、赤子との接し方を知らない母親が増え、抱っこを嫌がる子どもが増えているという。

 たとえば味覚。日本人はもともと食感や食材に対する豊かで多様な感度を持っていた。食感の多様性は栄養に限らず人生の多様性を楽しむ方法でもあった。ところが今、世代間に味覚の断絶が起きている。ファミレスが出来、ファーストフード、コンビニ弁当、レトルト食品が広がり、マヨネーズを好む「マヨラー」が大量に誕生し、飽食時代の味覚異常が若者達に広がっているのだという。

 例えば聴覚。かつて「ししおどし」の音を楽しみ「水琴窟」の水の響きに耳を傾け、軒下の風鈴を愛する文化が日本にはあった。かそけき音を楽しむことはそのまま静寂を愛する心でもあった。が、今や街角だけでなく、建物内や乗り物の中まで含めて、様々な無意味な騒音に満ちている。暴力的でさえある。一方で隣家の風鈴や子どもの遊び声を生活騒音として問題視する。他方、誰もが大きな音を出そうとし、誰も耳を傾けようとしない。視覚を覆うなど今一度聴き方を学ぶことを提案する。

 最後に視覚。外界の情報の八割は視覚に頼っている。私達は視覚に寄りかかりそれを信じる。が、視覚も客観的ではない。視覚は「知」と結びつき、文化や習慣のフィルターを通して見ている。今人類はかつて経験したことのない視覚環境の中に突入しつつある。そのリスクを回避する方法は何か…。

 五感ということで言えば、かつて産業革命以降は「手ばかりが巾を利かせる世紀」と呼ばれたこともあるが、現代社会はいわば「言葉と映像ばかりが巾を利かせる世紀」と言っても過言ではあるまい。つまりは、視覚に極端に偏った文明社会なのだ。そして、人はその歪みの中で苦しんでいるとも言える。本書にはその警告と処方の方法が紹介されている。

 「生きる力」が唱えられる一方「学力の低下」も懸念され、基礎基本の徹底が教育界で喧伝される。だが、その論議には何かが欠けている。その疑問の在処が本書で読みとれる。従来の知育も結構だが、育ちの歪みの中にいる子どもたちには視覚をはじめ多様な身体感覚を呼び覚まし、その豊かな土台を築かせることが今重要なことではあるまいか。(A)



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