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講演・学級崩壊--学校教育はどこへ行くのか


2000/02
「けんかつ講演シリーズ」の一環として

 教育改革の推進を掲げ、最近は行政の側からも新しい教育のあり方、新しい学校教育のあり方を考える催しが活発である。埼玉県でも行政サイドからの動きが活発になってきた。

 昨年の11月4日(土)、埼玉県民活動総合センターにおいて、(財)埼玉県県民活動総合センター主催で「けんかつ講演シリーズ」の一環として、シ「学級崩壊」 ― 学校教育はどこへ行くのか ― サと題して、朝日新聞記者・高橋庄太郎さんをお招きしての講演会が開かれた。
 高橋さんは、朝日新聞で初めて「学級崩壊」の現象を報じた社会部の記者。教育の現場を取材して感じ、考えたことを中心に話を進められた。
 会場を埋めた500名程度の出席者は、ほとんどが学校の教員か、または教育関係者と見受けられた。
 以下、その要点をかいつまんで紹介する。

     *     *     *

C国立教育研究所の調査で、学級全体の2%に崩壊現象があるという結果だが、その数値がどれだけ実態を反映したものかは分からない。和歌山大の調査では8%となっている。どの学級でも、どの先生でも起こりうるものだと言っている。

Cこれはマスコミがまず先んじて報道したものだ。その時、文部省の生涯課長は「注意深く見守る」と言っていた。しかし、国会で取り上げられて、文部省も動き出した。そして、国立教育研究所に委託して調査をさせた。しかし、行政の立場からは、「学級崩壊」という言葉は使えなかった。

C中学校には教育の歴史がある。「教え上手」という言葉があり、一斉で静かに聞くというのがよいとされる伝統があった。ところが、問題は中学校ではなく、小学校でいきなり拡大した。

C教師と生徒の間に食い違いが生じている。
 @子どもは夜更かしをするようになった。子どもの就寝時間は遅くなったが、学校の始業時間は昔と変わっていない。
 A子どもの生活と学校の伝統とがかみ合わなくなった。
 Bパソコンの時代に機能しない学習内容
  いまだに「筆順」をやっているが、もはやソロバン・暗算の時代ではない。
 C音楽にしても、子どもたちは自分なりの音楽を楽しんでいる。伝統的な授業でいいのだろうか。

C子どもたちの意識、家庭でのあり方の問題
 昔、自分が住んでいた北海道の田舎では、大学を出ているのは学校の先生だけだった。今は、6割が20代で学校で学んでいる時代になっている。
 そして、昔、学校は楽しい場所だった。家はけっして楽しい場所ではなかった。学校が夏休みになると、早く学校が始まらないかと思っていた。子どもの心に占める重みが今と昔では違っていた。学校の位置づけ、重みが変わったのだ。

Cのびのび、自由に、個性豊かに ― が、生活スタイルの新しいテーマになっている。
 幼稚園や保育所の自由保育が問題だという人がいる。しかし、それは半分しか当たっていない。今の親は、「みんなちがって、みんないい」という風潮の中で育ってきている。学校の伝統的なあり方に馴染めない子が育ってきている。「なんで〜?」と問う子が多くなってきている。世の中の全体のライフスタイルが家庭にも及び、それが「崩壊」の現象となって表れている。
 「学級崩壊」の現象を、低学年の場合と高学年の場合を分けて考えた方がいいと言われている。ある小学校では、半年ほどしたら、子どもたちは落ち着いてきたという。
 「学級崩壊」は深い根っこを持った問題で、学校の現状が社会に合わなくなっているのだ。

C「学級崩壊」が報道されてから、「家庭のしつけ」が問題ではないかと、多くの母親から指摘があった。
 「しつけ」のあり方をもう一度考えようという風向きに、神戸のサカキバラ事件の後から変わった。問題を起こした子の家庭のしつけはどうなっているのかと。
 文部省も「幼児の心の教育について」を出し、『家庭教育ノート」を1800万部配布した。かつて、「期待される人間像」を出した時には反発を受けたが、今は想像以上に多くの人が、家庭のしつけを考えている。

Cどうしてこういうことになったのか ― 。
 1970年代半ばに、教育が大きく変わった。昭和50年頃、戦後の高度経済成長に突入し、所得は2・8倍になり、全国で4000万人が都会へと移動した。静かな長い革命が始まったのだ。
 ベビーブームの時代、学校はそれまで安定していたが、進学熱が急に高まり、教育の拡大がなされた。
 そして、高校の進学率が90%を超えてから、中学校で不登校が増え始めた。校内暴力、いじめも中学校であったが、それが今は小学校まで下りてきた。社会全体が「学校化」し、不登校が増え始めた。

C子どもの生活も変わった。
 かつて日本は農業の国であった。が、今は一割にも満たない。子どもたちの「遊び」も変わった。時間・空間・仲間がやせ細った。公園はあっても、遊ぶ子どもの姿が見られない。家の中にいる。子どもの遊ぶ姿がこれほど変わったことはない。
 深谷昌志さんは、子どもたちの変化を跡づけているが、高度成長期後の子どもたちの世界の変化は、一世紀に相当すると言っている。

C学校が新しい子どもの変化にどれほどついていけるか。たとえば、「世界不思議発見」「万物創世記」の方が、学校の社会科の授業よりずっと面白い。

C「最近の子どもは…」と、ネガティブに捉えている大人が多いが、今、子どもの新しい良さが出ているのだ。積極性、メカに強いこと、イラスト・絵・マンガがうまいこと、。小学校のカベ新聞は、カラフルで、マンガや表が巧みだ。国語の時間に、「日本語は誰が発明したのですか」と金田一春彦さんに手紙を書いたりする。どんどん外に行く積極性が出てきた。

C「生活科」では、子どもたちが学校の外に出て学ぶことになったが、そこに今の子どもに会わせようとする努力があった。その延長線上に「総合学習」がある。学校がだんだん外の風を受けるようになっている。そうすると、生徒が生き生きとしてくる。

Cいつも「学力」の問題が控えている。2002年から総合学習が始まるが、全国でその実験が始まろうとしている。
「基礎基本はどうなるんだ」「総合学習は要するに遊びじゃないか」という議員がいた。そういうことが今後出てくるだろう。
 授業の質を変えていくことが必要だ。先生方の教えるシステムを変えていくことが必要だ。
 しかし、それにはそれなりのルールが必要だ。好きなことは何をやってもいいんだとはならないだろう。そこに集団としてのルールが必要だ。共生の時代にふさわしいルールが必要だ。

     *     *     *

 高橋さんのお話の大筋は、社会が大きく変容し、家庭での考え方も子どもたちも変わったのに、その変化に学校が対応できていない。それが「学級崩壊」という現象となって表れている。そういうものであった。
 そのためには、学校が授業の質を変え、先生方が教えるシステムを変える必要があると。「総合学習」もそういうものとしてあると。
 ただし、「学力」というものをどう考えるか、この問題は解決したわけではない。そして、新しい時代に
ふさわしいルール作りが必要であると。
     *     *     *
会場からの質疑応答から

C今、学校に何が求められ、期待されているのか。
C「生活科」 ― それは親の領域ではないのか。
C今、子どもを学校に行かせるのは、一種の保険に過ぎないのではないか。
C基礎基本の問題には、知的な部分と生活の部分があると思うが、公教育の重みは保たねばならない。
C品川区の学校選択の自由は、親が学校を選択するというよりは、学校を淘汰し、学校を統廃合する一貫としてあるのではないか。
C今の子どもたちは、脳が十分に発達しないで、小学校に上がってきているのではないか。
C今、学校で必修クラブをやっている所はない。部活動で代替されている。その辺の反省もなく、一部の有力者が考えた「総合学習」が出てきた。「遊び」でいいのかなという気がする。
C若い先生が足りない。
     *     *     *
 質疑応答で発言したのは、主に学校の教員であった。しかし、その言葉からは、文部省の新しい方針に対する苦言や不満、疑問視する内容のものが多く、前向きに積極的に受けとめる発言はほとんどなかった。
 そこには変容を迫られている学校、教員のとまどいの色が濃く、またマニュアルを求めている姿さえ感じられた。

 「学校教育はどこへ行くのか」 ― これに対する明確な解答はない。文部省も提示してはいない。現場サイドの工夫にゲタを預けている感さえある。

 だからこそ、上意下達の教育に頼らず、現場の教員が主導権を握って新しい教育の在り方を創り上げていく絶好のチャンスであるはずなのだが、現場の教員の口から出てくるのは、愚痴に類するものがほとんどであるのはなぜなのか。現状に対する窮状を訴え、さりとてまた変化をも望まない。ここに学校教育の陥っている病弊の最大の問題がある。ここからは、愚痴をつきながらそこに安住していたいという、結局は隷従をよしとする自虐的な教員の姿しか見えてこない。
 だが、もはやそこに安住の地はない。「学校教育」という地盤は徐々に、しかも確実に崩壊して行きつつあるのだ。それをどうするか。やはり、現場の教員一人ひとりがその解決の方途を見出すしかないのではあるまいか。




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