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「学校U」からのメッセージ


1997/03
養護教員として親として受け止めたこと
埼玉県立川口養護学校教諭 藤掛 紳一

  まえがき
 昨年10月19日から一般公開された山田洋次監督の映画「学校U」。ニコラの読者の多くの方々は、すでにご覧になったのではないかと思います。
 私は、本誌に寄せたレポート「転身」(95年10月号)「転身U」(同12月号)が縁で、映画の脚本完成段階と「学校U」をめぐる日本テレビのドキュメンタリー取材にかかわることになったこともあり、幾分か特別な感情を持って見ました。
 今回のレポートは、そのいきさつと養護学校教員という視点から見て考えたことを報告したいと思います。

 ◎ニコラ・レポート「転身」その後
 「転身U」に、映画「学校」と私のかかわりを書き、その中で夜間中学教員の見城慶和先生を紹介しました。その文を先生に送ったところ、私が込めた思いを山田洋次さんと第一作公開時の「学校」をめぐるドキュメンタリーを製作した日本テレビのSさんに伝えたいと、コピーをとり送ってくださったのでした。そして、96年2月に松竹のプロデューサーFさん(山田さんのスタッフ)とSさんから相次いで連絡が入り、お会いしました。さらに3月中旬には、主演の吉岡秀隆さんがプライベートなルートで川口養護の見学・体験に来校したこと(3日間)も加わり、映画との接点が次々にできたのです。
 Fさんが持ち帰った資料の中の川口養護高等部卒業生の作文が、吉岡さん演じる高志の作文に生かされました。(「僕は、心の中に壁があります。…」)

 しかし、共感したSさんと私たちとの何回もの長時間の語り合いや高等部卒業式(そこには見学する吉岡さんの姿もありました)や卒業生が集う青年学級の取材テープは、ついに生かされることはありませんでした。視聴率が取れそうにないという局の上層部の判断で、番組製作そのものが中止になってしまったのです。Sさんから伝え聞いた、テレビ界の視聴率最優先の方針から加わる現場プロデューサーへの圧力。障害児問題をも「おもしろく」と執ようにせまる要請との葛藤。良心的プロデューサーの絶望感とそこから沸き上がる使命感。マスコミの世界の厳しさを実感しました。その後、Sさんは、自分の天職と決めていた製作の現場からはずされてしまいました。局の意向に抵抗して、養護学校の日常をどうしても紹介したいとこだわった結果なのかと思うと、残念でなりません。

 Sさんは、山梨県の高校書道教師「うめ子先生」を10年間追ってドキュメンタリーを制作し、93年文化庁芸術作品賞、サンフランシスコ・ゴールデンゲート賞などを受賞した名プロデューサーです。「学校」第一作公開時に放映された番組「いま学校がおもしろい!」(93年11月6日・90分)も、日本の学校への深い部分での問いかけを含む見事な作品でした。そのような、実績のあるプロデューサーの企画でも「地味」であることで排除されてしまうというのが今のテレビ界の状況なのだということでしょう。

 ◎映画「学校U」に示されたこと 〜養護学校の世界・教員・仕事
 さて、この映画で示されたことの中から、私が、自分の職場と仕事に重ねて心に止めたことを、シナリオからの引用を交えながら、いくつか書きたいと思います。(シナリオの引用は、ちくま文庫「学校U」からです。)
 あらすじの紹介はしませんが、主な登場人物をあげます。主人公の生徒は、高志(吉岡さん)と祐矢。先生は、一般高校から転身してきたリュウ先生(西田敏之)、障害児教育一筋の玲子先生(いしだあゆみ)、不本意に赴任させられ転勤を希望しているコバ先生(永瀬正敏)、個性的な校長(中村富十郎)です。

 ○養護学校教員の世界の混沌
 まず、映画全体を思い返して感じるのは、養護学校の取材の成果がみごとに生かされているということです。特に、前半。回想の形で描かれる、生徒のようす、授業や生活の一端、教員の思い、保護者の思いの表現は、とても現実感があります。ウンコ・オシッコの世話(介助)、生徒のパニックは、養護学校の日常です。
 養護学校の教員世界は、「転身」でも書いたように、その内実は、混沌としています。映画では、その中の三つの立場をとりあげているわけです。実際には、障害児教育一筋というタイプはとても少なく、不本意赴任か転身タイプが多いのです。埼玉県の場合、「障害児教育の教員」は募集していません。教員試験は、一般校の教員としてしか実施しないのです。なり手が少ないという現実があり、とにかく新任の中からしぶしぶでも赴任してくれる人を捜すか、赴任を条件に合格させるということも多いのです。そして、3〜5年辛抱したら一般校へ異動させてあげるよというしくみです。
 かなりの意識の違いがあっても組んで仕事をしなくてはならないという「複数担任制」が、養護学校の仕事の大きな特徴です。共感を土台にして、交流しながら担任を組み、お互いの良さを生かして仕事をするというのが理想ですが、それを成立させるにはさまざまな積み重ねと精神的な力が必要です。困難ではありますが、それができた時の喜びは格別です。しかし、人と組むということが苦手なタイプには、苦痛の方が大きいでしょう。人が組むことの困難性は、玲子先生がコバ先生に対して言う次のようなセリフにさりげなく示されています。

 「3年ほど腰掛けでいて、そのうち札幌あたりの普通高校に転任したいんでしょう。本当は、そういう人がチームにいるのは、とってもやりにくいものなのよ。」(シーン43)

 だから、逆にそのコバ先生が転任希望を取り下げて「…リュウ先生ともう少しつき合ってみようかなと思いまして」と言ったことに対する同僚としてのリュウ先生の喜びは、大きく表現されるのです。(シーン73)
 ○養護学校の仕事のとらえ方
 養護学校教員の仕事は、かつて、いや現在も、学歴序列が深く浸透した社会・世間の中で、その仕事の意味・やりがいを見い出しにくいものです。
 そういう社会・世間を山田さんは、このドラマの背景としてさりげない場面にも織り込んでいます。たとえば、リュウ先生の別れた妻(映画には登場しない)に「世間体を大事にして」大学受験を迫られる娘の悩みやコバ先生の恋人との別れの理由などに暗示されています。
 コバ先生は、この仕事に対する「むなしさ」を次のように訴えます。

 「…僕はあいつを追いかけ回すために教師になったんじゃないんですよ。保育園じゃあるまいし、何で僕があいつのウンコやオシッコの世話までしなきゃなんねんだ。子供ならまだいいですよ、あいつのウンコやオシッコは猛烈くさいんだ。…この2ヶ月祐矢一人に僕がつきっきりなんですよ。そんなの学校のあり方として不公平だと思いませんか。」「…僕は元々ここを希望してきたわけじゃないんですから。」(シーン43)
 「時々むなしい気分になるんですよ。祐矢と積木遊びなんかしてると、一体俺はなにやってるんだろう。俺にはもっと他にやるべき仕事があるんじゃないだろうかって。」(シーン73)

 不本意赴任タイプの養護学校教員のごくふつうの心情です。なかなか転任希望が通らず悶々とする教師。現在の自分の仕事、職場を軽蔑する心情をおさえられない教師。「私は、自分の教科の専門性を生かしたいんです」という職員は、多いのです。自分は、この世界では、生かされないとう感覚は深刻です。私のように、一般中学校で16年を過ごし、自分探しをした結果希望して転任してきた心情をいくら語ったところで、共感することは困難です。「普通学校の教員の仕事の経験がない自分に自信がもてないんです。」という、障害児教育専攻で新任以来情熱的な実践を積んできた若い教師のことばを聞くと、なおさらこの仕事のとらえ方の難しさを感じます。
 山田さんは、玲子先生とリュー先生の姿とセリフに、ひとつの答えを提示しています。二人がコバ先生に語ることば。

 玲子「あなたの今の言い方、少しおかしいわよ。保育園じゃあるまいしとあなたは言ったけど、保育園で子供のオシッコやウンコの始末をするのはそんなに程度の低いしごとなの?大学の先生は偉くて幼稚園の先生は偉くないとでも思ってるの、」「…いずれあの子たちはここを卒業したらこの国のすさまじい競争社会に放り出されるのよ。せめてこの学校にいる間は精一杯愛してあげたい。自分にも母校があるんだっていう思い出を作ってあげたい。それがどうしていけないの。何が不公平なの。」(シーン43)
 リュー「…子どもたちに迷惑かけられるのが教師の仕事でしょ。そのために高い月給、もらってるんでしょ。それとも教師が楽できるような手のかからない人間を作ることが学校教育とでも思ってるの。まさかそんなこと、優秀な成績で大学を出たあんたが考えてるわけないだろ。…何でもいいんだよ、まず子どもとのとっかかりを見つける。そして共感しあうそれで次の段階に進めるんだから。」(シーン42)

 とても、直接的な表現ですが、これは、今の養護学校の教員という自分に納得し、力を注いでいる人々には共通の心情ではないかと思います。私もそして共感でつながる仲間も、リュー先生のことばに、そうだ、そうだと、うなづいていました。

 ○養護学校教員の喜び
 養護学校教員の喜びの具体的なかたちも、この映画の中に示されています。
 たとえば、モデルになった北海道雨竜高等養護学校の卒業生が演じる資子(もとこ)さんが初めて書いた作文を読む場面。「わたしのすきな人」と題して、身近な人々への好意を素直に表現した文を読むうちに涙ぐむ玲子先生。入学以来一言も口を聞かなかった高志が、初めて声を発する場面。さらに、自分の思いを作文にして発表する場面。その高志を慕う祐矢の行動の変化。すべて事実にもとずいたエピソードです。そういう、一般の学校では、なんでもないこと、あたりまえなことがひとつひとつ実現していくことの感動、それに寄り添い共にその場に立ち会えることの喜びです。
 私も、そういう、普段立ち止まって考えることなどなかった、日常生活のあたりまえのことへの感動を養護学校へ赴任してから改めて気が付きました。そして、父親として二人の子どもと過ごすときの感覚も大きく変わりました。子どもと一緒にいること、遊ぶことそのものを楽しめるようになっていきました。
 この映画の中の私の好きなシーンのひとつに、北海道の原野の中の道を、ワゴン車に乗った先生、生徒が「風になりたい」(ザ・ブーム)というサンバの曲をみなで歌い、演奏しながら疾走するシーンがあります。「いま生きている喜び感じて風になりたい!」生きていることそのことを喜びたいという思いがわきあがります。

 ◎映画「学校U」を深く味わう 〜山田監督の静かな問いかけ

 ここからは、映画の後半について、考えたいと思います。

 ○社会の現実 不寛容と差別
 後半、鮮烈に描かれるのは、卒業後の就職に向けた高志のクリーニング工場での実習です。高志を追込み苦しめる職場、社会の冷たい現実、不寛容な社会、差別が重く描かれます。
 高志の涙とともに、次のことばを心に止めた方も多いでしょう。

 「俺、もっとバカだった方がよかったな。だってわかるんだ、自分でも。バカだからなかなか仕事が覚えられなくて、計算も間違ってばかりいて、みんなが俺のことバカにするのがわかるんだよ。先生、祐矢の方がいいよ。自分がバカだってわからないんだから」(シーン72)

 寮を抜け出した高志と祐矢が訪ねたホテルの調理場で働く先輩の姿や言葉にも、現実はさらに重ねて描かれます。その先輩は、高志に、今の仕事は面白いかと聞かれて答えます。

 「面白いか、面白くないかなんて、考えたことないよ。僕はここに就職できて恵まれているんだから、そんな風に考えちゃいけないじゃないのかな。嫌なこともあるけれど、我慢しなくちゃいけないんだ。ただ、高志も俺と同じ障害があるからよくわかると思うけど、時々我慢できなくてパニック状態になるだろう、あれが嫌だな。辛いことをじっと我慢できないって本当情けないと思う。」(シーン77)

 そういう現実から、逃げ出すようにして、白い雪原の中をあてもなくさまよう二人。その二人が出会うのが、熱気球を楽しむグループです。誘われるまま熱気球に乗り空へ上昇し、歓喜する二人。白い雪原の中に鮮やかな色の大きな気球が浮かぶ場面には、不思議な爽快感があります。二人を捜し回りやっと空に見つけるリュー先生とコバ先生。このシーンが「クライマックス」です。
 この「クライマックス」をどう感じるかがこの映画を考えるひとつの大きなポイントであるようです。
 私の周囲の人々のなかでは、大きく二つに分かれました。「感動した。すばらしかった。」「救われたような気持ちになった。」と感じた人。「なんでここで気球なの?よくわからない」「納得いかないな。すっきりしない」と違和感を感じた人。前者の含まれる人の方が多数でしたが、実は、私は後者でした。
 前者の中には、「第一作よりずっと感動した。」と絶賛する人もありましたが、「映画は、映画、あれでいいじゃない。ああじゃなくちゃ救いがないよ。」と割り切って見た人もいました。
 私は、なぜ納得がいかなかったのか?
 やはり、養護学校の現場を知るものとしていくつかのことにひっかかったからです。行方不明者の捜索を何回も経験して感じる「甘さ」。(川口養護では、このような場合全職員で体制を組みます。)知的障害者をいとも簡単に気球に乗せてしまうという不自然さ。そして、社会の現実の厳しさの提示だけが強烈にあり、わずかでも、現実の中にも確実に存在する希望が示されないまま卒業式の場面になってしまう展開のあっけなさ、などです。
 「現実」のことを、川口養護の高等部で長年進路担当をしている同僚に聞くと、「確かに厳しいのが現実。でも、あたたかい理解を持って受け入れる職場もけっこうあるのよ。それに、現実的に必要としているという要求もあるし、それに、運動に支えられている作業所もあるわけだし、やはり、一面的じゃないかしら」と言います。
 しかし、そんなひっかかりも、養護学校教員という立場から、あまりにも多くのことを山田さんに求めすぎたことによる贅沢な要求だなとも思いました。山田さんは、同僚が言うようなことは知っているわけですから。

 ○「学校~」を深く味わう
 はじめひっかかりを感じていた私も、このレポートを作成することを意識して、シナリオを読み込み、山田さんやスタッフの方々が書かれたものも読んで考え続けていくうちに、変化していきました。じっくり味わい直していく過程で、後半に込められた「メッセージ」のようなものを感じ出したのです。それは、どんなことか…。三つに分けて書いてみます。
 (T)
 まず、第一のメッセージは、二人の生徒を捜して雪原のなかを、ワゴン車で右往左往し、やっと上空に見つけるまでのリュー先生、コバ先生の姿、会話にあります。
 山田さんは、二人の教師の笑いを誘うようなあわてぶりや真剣さに、「神秘的と言いたいほどの不可思議さ」をもった「複雑で理解するのが困難なつらい障害をもった生徒たちひとりひとりの心を理解しようと懸命になっている「真面目な教師たち」の葛藤を象徴させているのだと思います。「真面目な教師」が乗った車は、最後は雪の中に突っ込み止まります。どこからか生徒の声が聞こえてきて、車からはいだし、雪をかきわけかきわけ声のする上の方をめざしては滑り落ち、またはいあがり、というリュー先生の姿は笑いを誘いますが、その笑いは共感による笑いです。山田さんが出会った多くの教師への共感が込められていることは言うまでもありません。
 (U)
 次に、第二のメッセージ。「熱気球」にふたつの意味を感じます。
 この「熱気球」には、山田さん自身の体験をもとにした次のような思いが込められています。

 「…知的障害を持った子どもたちの中には、空を高く上がりたいという気持ちが強いのね。…鳥になりたいとか、空を飛びたいというあこがれ。熱気球にのるのはちょっと不思議な体験なんですよ。…華やかな色彩の気球が天にいわば神のいるほうに向かってゆったりと上がって行く。至福の感情とでも言うか。」
 「映像を信頼することでしかあのクライマックスは成り立たないな。」
 「…世間の苦しみから抜け出ていくというか、子供たちが天国の階段を神に愛でられながら上がっていくというか。…」「確かに、じゃあ何が解決したんだ、どういう落ちつき方でこの映画え終わったんだと問われると、ちゃんと答えられない…」(監督インタビュー)

 私が感じた二つの意味のうち、まず一つめは、「熱気球」を楽しむ人々に象徴される「遊ぶ人」が持つ、自由なとらわれない心の意味です。
 はじめは、不自然に感じた、熱気球グループと高志たちのやりとりでしたが、気軽に声などかけない一般の常識に従えばそうです。しかし、ふっと感じた自然さもあるのです。私も含めて、差別意識からなかなか逃れられない人々が多い中で、本当に自由で柔軟な心、感性を持てるのはどんな人々だろうかと考えると、映画に登場かたような、「遊び」をとことん、こころゆくまで遊べる人たちにその可能性を感じるのです。経済的、社会的効率などとは関係のない遊び、時間を楽しむ生き方のなかに、ヒントがあるように感じるのです。
 私のこれまでの「生き方」を振り返ると、長い間、勉強ができることが最大の評価を受ける「学校」の中で育ちそこを一歩も出ずに教師になり、遊べない人間になり、いつも何かに追われているような感覚でいました。非常に狭い枠の中でしか考えられず、たくさんの「常識」で縛られてきました。今も、それは続いていますが、少なくともそういう生き方のつまらなさだけは、しっかり自覚できるようになってきました。熱気球に、自分を解放する何かを感じるのもそんなところから生じているように思います。
 二つめは、リュー先生とコバ先生が、熱気球に乗った二人を上空に発見したことの意味です。二人の「真面目な教師」が必死になって捜した生徒は、先生の頑張りなど頓着せず、上空で歓喜の声をあげています。
 私たち教師が同じ地点(雪原上)で、生徒をとらえられるとばかり思い込むうちに視野は狭まってしまい、生徒は、全く違う地点(空)から現れたわけです。「答え」は、全く思ってもみなかったところから得られたのです。
 実際に、障害児教育の現場では、そういうことが多いのです。
 しょせん、教師が考える範囲に生徒のすべて、ほんとうのことが収まるはずなどないのです。教師の意図に従って、単純に、思いどおり、理屈どおりに発達したり成長したりするのではないのです。そう思い至ると、「熱気球」は、教師の意図を越えたものの象徴として、感じられるのです。
 山田さんは、シナリオに次のように書き込んでいます。

 リュー「与えるとか教えるとかいうことじゃないんだよ、コバちゃん。子供たちから学んでそれを返してやる−それが僕たちの仕事なんだ」
 校長「まあ、学校のできることはしれてるんだよ」…
 コバ「それじゃ、学校って何なんでしょうね」
 校長「難しい質問ぶつけてくるね、君も。自分で考えてくれよ。…」(シーン105)

 山田さんは、この「学校U」の後半に、第一作のときのような、生徒の思いや力を引き出した、真面目な教師の誠実さや努力の「成果」としての「いい授業」であるとか、教え子が同じ夜間中学の教師を目指すと担任に伝えるという「感動」などのエピソードを配して「クライマックス」とすることを、あえて避けたのではないかと思います。確かに、養護学校では、その内情をほとんど知らない人が一般の学校での感覚(基準)で考え理解できるような、「成果」を示すことは難しいこともあると思います。
 第二作に込めた、山田さんの強い思いは、「真面目な教師たち」への共感、感動を描くことよりも、そういう教師たちをも含めた全ての人々への提言にあるのです。ここまで考えてきてやっと私も、山田さんが、この映画のために書いた短い「メッセージ」(PRチラシ)の意味をわたしなりに理解できたように思います。

  制作意図
 学校や教師にとっての都合のよい生徒を作るのが教育なのではない。
 子どもを教え導くのではなく、子どもによりそってやるのが
 教師の仕事ではないだろうか。
 障害児教育の現場を舞台にして、学校や教師にかけた夢を、
 生き生きと楽しく、時としてしみじみと描きたい。
                                     山田洋次

 この「メッセージ」は、教師全体への呼かけですが、養護学校を舞台にしたことでその意味はより明確に表現されたのではないかと思います。
 しかし、率直に言って、公立の中学校の現場を知る私には、一般の学校の教師が本当にこういう仕事観を自分のものにするのは難しいことだと感じられます。
 (V)
 第三のメッセージは、ラストの卒業式の場面に込められています。
 昨年(96年)11月に発行された「現代日本文化論3 学校のゆくえ」(岩波書店)の中に、山田さんの「『学校』という映画を作りながら」という文があります。そこで、山田さんは、「卒業式」を例にあげて、日本の学校の「形式主義」への疑問をとてもわかりやすく書いています。なぜ「卒業証書授与式」などとよび、全国同じような形式的な式の進め方をするのか。なぜ、「君が代」や「日の丸」を押しつけるのか。「学校は、お役所であってはならない。権力が振るわれる場所であっては絶対にならない。」と明快に述べています。
 映画の中の「卒業式」は、壇上に「卒業証書授与式」という看板が下がってはいるものの、演台は、フロアーに置かれ、席はそれを囲んでコの字型に並べられています。紅白幕で囲まれていますが、日の丸、君が代はありません。
 私が勤務する、川口養護の高等部の卒業式はもっと徹底しています。「儀式」の雰囲気を排除して、「最後の授業」として位置ずけ、卒業生の発表(荒馬踊り、ソーラン節など)が中心で、ひとつの物語のように構成しています。職員は、卒業式実行委員を組織して1年がかりでとりくみます。公立中学校教師として完全な儀式の「卒業証書授与式」の経験しかなかった私は、初めてそのような「卒業式」を見て、たいへんな衝撃を受け、自分自身が解き放たれたような感動を味わいました。それまでの自分が「真面目に」取り組んできた「仕事」はいったいなんだったのかと、根底から揺さぶられました。
 しかし、その後、そういう「卒業式」は、養護学校の中でも少ないのだということが次第にわかってきました。県の教育委員会やその指導下にある管理職教員にとっては、本当は認めたくない形であるようです。いつまで、このやり方が続けられるかわからないのです。(そういう意味でも、日本テレビのカメラに収録された「卒業式」が放送されなかったのは残念でなりません。)

 ◎映画「学校~」制作の周辺でみえたこと 〜障害児教育における対立

 これから書くことは、悲しいことです。
 実は、映画制作過程で現れた大きな問題がありました。それが、少なからず、シナリオ作成の「条件」になったことと思われます。
 山田監督の「学校」第二作の舞台が養護学校であるということが決まり準備が進み、さらに記者会見発表などの動きに対して、「養護学校礼賛の映画なんてとんでもない!」「『学校U』を見ない運動をやるぞ」というような抗議が松竹に続々と寄せられたのです。(報道では、30件以上とのこと。)
 障害者と健常者が共に生き、育つ普通校での「共生・共育」を説く親、団体の訴えは、「隔離」教育である養護学校を美化してほしくないということです。映画の中で、リュー先生が、語ります。

 「…養護学校の歴史だって、まだ浅いんだし、それにな、あの子たちを普通の子供たちから切り放して特別扱いすることに問題があるんだよ。何故なんだよ。あの子たちが普通高校にいちゃ邪魔なのか?あんな天使みたいな子供たちから学ぶことは沢山あるはずなんだよ」(シーン100)

 このセリフには、そういう思い・運動への配慮がうかがえます。
 養護学校教員になって間もない私には、今後真剣に向かわなければならない課題です。今の日本の養護学校のかたちでいいとは思っていません。しかし、養護学校の存在、現在そこでおこなわれている実践を全否定する激しい批判は理解できません。障害児教育における「対立」の状況には、まだ私の認識力ではついていけず、ただ、悲しさを感じるばかりです。
 そういう動きの中で、松竹のFさんからの連絡はその後一度あったきりでプッツリ途絶え、ドキュメンタリーの制作も中止されました。
 後になって完成直後の試写会に参加したある方からようすを聞きました。

 「今回の試写会では、第一作の時のような熱気があまり感じられなかったね。入場する時もなんだか物々しいような雰囲気で…。終了後も前回のような盛り上がりが感じられなかったなあ。…」

 長々と、書いてしまいました。
 最後に、強調したいこと。実はこれが、私の心に一番強く存在する感情なのですが。
 山田監督が、「学校」第二作の舞台に養護学校を選びいろいろな状況変化も乗り越え完成させたことへの感動と感謝です。
 「学校U」は、日本映画史に残るだけでなく、日本の教育にとっても第一作とともに貴重な映画だと思います。私を含め、多くの障害児教育に携わる教員にとって大きなはげましになったことはまちがいありません。(私の職場には、7回見た人もいます。)そして、この映画によって全く関心を持たなかった障害児教育の一端を初めて知った方もたくさんいるはずです。テレビ界で放映されれば、その意味はもっと大きくなります。そして、この映画をきっかけに話し合いがもたれたり、さまざまな行動が生まれたりするのではないでしょうか。私は、見た人々の中にそのような心の波紋が起きると信じています。
 そして、第一作「学校」が、私の中学校教員から養護学校教員への「転身」を決意した時期の忘れられない映画となったのに続いて、第二作「学校U」は、その「転身」後2年半の間に、個性的な子どもたちや同僚から学び得たことの意味を確信させてくれる、私の人生に直接かかわる大切な映画になりました。

 最後に、山田さんへのメッセージを書かせてください。
 Fさんから連絡をいただき、山田監督に会えるのだと思ったときは興奮しましたが、それはかないませんでした。しかし、私が書いたものを読んでいただけたということ、そして、私が映画を見ていること、書かれたものを読んでいることが、会っていることなのだと思います。
 二本の映画「学校」を、本当にありがとうございました。
 これからも、子どもによりそって、生き生き楽しく、仕事をしていきたいと思います。




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