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不易流行と言うが…


2003/10/18
不易流行と言うが…

地方紙の今朝のオピニオン欄を見ると「規律が大事」とある。某大学の学長の記事である。「ああ、相変わらず…」と思ってしまう。この欄に登場する人物がいつも同じなら、そこに載る意見もまた同じようなものである。だからその記事を読もうと読むまいと何ら意識に格別な変化を及ぼさない。だが少し気になる。

「不易流行」という言葉があって、変わるものに目を奪われず絶えず変わらぬものに着目することがあたかも良いことのように思われている節があるが、ちょいと違うのではないか…というのが近年の私の感想である。

不易を大事にするとは聞こえはいいが、畢竟、ここに見えるのは守旧墨守であって「待ちぼうけ」の兎を待つ農夫の姿に過ぎない。未来や展望を語ることができないから黴の生えた伝統、役立たぬガラクタを持ち出しているだ。近年、政治家や教育者の発言を聞いていて特にそう感じることが多くなった。

今の時代、新しいものを盛るには新しい器が必要だ。もはや間に合わせの入れ物では通用しなくなった。子どもたちを見るがいい。若者たちを見るがいい。年年歳歳時々刻々成長し変化を遂げている。少し前までは背丈の低かった子がもう見上げるように大きくなっている。一年前の制服がもう着られないのだ。まさか制服に身体を合わすわけにもいくまい。だが教育界ではそんな対処法が大真面目に論じられている。

何が不易かを見極めそれを守ることは勿論大事なことである。だが、古ければ価値があるというものでもあるまい。わらぬ様相の中に変わり行くものを見つめるのも必要な作業であろう。このことに怠惰になってはいけない。子どもは親の似姿で生まれてくるが、親とは別の存在なのだ

もう決して若いとは言えぬ年代になったが、しかしてますます変革を志向する気概が湧いてくる。年を重ねれば身体はだんだん硬くなるが、精神はますます自由に羽ばたくようになる部分もあるようだ。世間の余計なしがらみに囚われなくなっていくからだろうか。




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