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フレネ学校とけやの森学園


1997/12
■自由と自然の中で創造的な力を育む…フレネ学校とけやの森学園の交流から

 八月二十一日、埼玉県狭山市のけやの森学園で、「日仏交流 第二回けやの森学園 公開保育とフレネ研究会」が開催されました。文部省が第二次教育答申を出した直後の中央教育審議会に、あえて「心の教育」を諮問したように、今子どもたちの育ち・教育の問題が重要な課題として私たちに突き付けられています。それは単に学校教育にとどまらず、幼少時からの育ちの問題に行政の側が率直に危機を表明したということでもあります。
 そういう中、けやの森学園では、昨年に引き続き、フレネ学校のミシェル・バレ氏をお招きして、公開保育、バレ氏の講演会、けやの森の先生による実践報告会が催されました。

 けやの森学園では今までにも、自然塾を設け、毎年夏に、「入間川アドベンチャー・カヌー・ツアー」を企画するなど、子どもたちの自然体験、自然からの学びなどを重視すると共に、フレネ教育法から学んだ保育を心がけるなど、極めて注目すべき実践を行っています。
 当日の催しの中から、ベレ氏の講演会の模様と、けやの森学園の活動の実践報告を紹介したいと思います。

◆フレネとけやの森学園 法政大学教授 古沢常雄

 フレネ学校というのは、当初フレネという人が小学校の先生になったんだけれども、第二次世界大戦で毒ガスで喉をやられた。おまけにドイツ軍の鉄砲玉が肩を撃たれた。戦後、小学校に戻り、教師を始めた。赴任した学校は田舎の粗暴な子どもたちの多い学校であった。しかし、フレネは大きな声が出なかった。指導に悩んだ。

 ある時、子どもたちが熱中している遊びがあった。エスカルゴの競争だった。子どもたちはいろんな話をしている。フレネはそのことを黒板に書いて生徒に読ませると、すらすら読んだ。教科書ではつっかえつっかえ読む生徒が生き生きとしていた。じゃあ、生徒達が発するそういう言葉を自分たちで書き、自分たちで印刷したらということになった。

 そうして生徒たちのいろんなことに気が付いていく。もっと生活に密着していて、子ども自身がいろんなことに気が付いていける、そういうふうな方法として、一言で言えば、先生が教えないで、先生が手抜き授業をやれば、子どもたちが生き生きとしてくるんだと。

 つまり、教える教育ではなく、子ども自身がある興味を持ち、しかし、ある興味から次の興味にうつっていくんじゃなく、一つの興味からだんだんと物事の本質を見つけるような方向に子どもたちの興味・関心というのは移っていくんじゃないか。そういうような形で子どもたちの関心をもっと広げていく、そういう探究。一つのことに夢中になっていれば、別の子は別のことに夢中になっていく。そうすると、別の子がやっていることに面白そうだな、というふうにして、いろいろと知識を重ねていく。そういうことを言葉に表したり、あるいは絵に書いたり、本で調べたり、友だちから聞いたり、あるいはおじいちゃんおばあちゃんから聞く、お父さんお母さん、あるいはお店の人から聞く。まあ、社会科勉強ですね。そんなふうにしつつ、自分の関心を中心に話をしていく。

 そのために、子どもが相談すれば、先生がこういう手段があるよ、こういう参考書があるよといろいろアドバイスを与える。そういう参考書や興味関心を引くような題材を、絶えず教師が持っている。むしろ教えるだけの授業というか、技術を学ぶよりも、そういう子どもたちが質問してきた時に、答えるためと、子どもの興味関心はばらばらですから、先生は肩の力を抜いたと言っているんだけれども、実は決して力を抜けない。声を張り上げたりはしないけれども、教師は一生懸命いろんなことを勉強していく。で、教師は勉強すればするほど心が広くなる。物の見方や考え方が広くなる。そして、いつでも子どもたちを余裕を持って受け止められ、そこでいわば教師はいつでも知っている人、正答を持っている人じゃなくて、教師も勉強しつつ子どもから学ぶこともあれば、子どもの知恵を借りるというようなことをしつつ、教えつ教わりつ、対等な人間関係というのが出来ていくのじゃないか。あるいは子ども同士がお互いに刺激し合っていく。

 山の学校と海の学校と交換する。いろんな物の見方が地域によって違うんだなあ、ということを学んでいく。そういう中で、社会的な自然、人間がまともな育ち方をする。学べば学ぶほど、学歴を積めば積むほど嘘をつくのが上手になる、というふうなことがあって、最後に行く着くのが刑務所である、という不自然な育ち方ではなくて、のびのびとこの社会に貢献できるそういう自然。それからいわゆるぼくたちが言っている自然というものも、自然の恵みというものをもっと自覚できる、そういう学習活動をしよう。で、そういうふうにして自然と触れていく、あるいは人間(human nature人としての自然)の本性を理解できるような指導をフレネ学校はしてきた。強制はしないで子どもたち自身でいろいろ学ぶ。

 自然環境として、自然もそうなんだけれども、もっと人間の自然のあり方、あるいは社会の自然のあり方、広い自然というようなもの。だから、むしろ、肩の力を抜いて、素直に様々に社会のあり方、自然のあり方、人間のあり方を見ていく。その中から何をつかみ得るのか、そして新しい社会を作っていく、そういう力を育てたいというのが、このフレネの行った実践です。

 そういうような実践をフレネは若い頃にやったわけですけれども、地域の封建的な社会の矛盾を暴くような、あるいは大人の権威を崩すようなことにもなるので、フレネはそういう地域社会から排除されてしまう。教師をやめろと親自身がストライキをやるというふうなことで、フレネ派と反フレネ派というふうに同じ村で睨み合うというような事態になった。そういうふうなことではいけないというので、公立学校の教師は辞めて、自分で新しく山の中に学校を創った。それがフレネ学校という私立学校として今日に至っている。

 やはり子ども自身も勉強勉強というふうに、宿題宿題と追い立てられるのではなくて、子ども自身も肩の力を抜いて学べる。そのままやっているものがよく成果が上がっているということで、私立学校を創りつつ、公立学校でも出来る実践は何かとずうっと探究してきて、それが現在、世界的に認められるものになっている。アフリカ、中南米、カリブ海、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパでも盛んに行われていて、ドイツ、イタリアでも実践されている。残念ながら英語圏ではあまり普及していないけれども。

 ところが、フレネが作った私立学校というのは、1935年ですから、今から60何年前です。ところが、フレネが実践した頃の私立学校に新教育運動というのがあったんですけど、それが多くは潰れてしまって、今残っているのはシュタイナーの学校、モンテッソリーの学校など。もっとたくさんあったんですけれども、ほとんど潰れてしまった。

 そういう歴史を持った学校とこのけやの森学園が交流をして長い歴史を持つようになりましたけれども、そのけやの森学園もやはり自然に取り囲まれている。とにかく自然の中で、あまり遊具は使わないで、子ども自身が自ら進んで工夫したり、学校農園を作ったり、いかに体だけでなく知恵を、あるいはどろんこになって汗水垂らして身体をいかに発達させるかというふうに工夫をしているわけです。

 単に呼吸するだけでなく、呼吸をしている間にどういう活動をしてきたのか、その活動そのものが大切なんだ、それが教育の目的だというふうに、ルソーは言ったわけですけれども、そういうふうにして自然と触れつつ、人間の持つ諸能力あるいは感性を伸ばしていく。そのためには自然に触れる、そういうような点で、けやの森とフレネの学校は方法論的に多少すれ違いがあるかもしれないけれども、子どもの創造活動あるいは文章活動を通じて、子ども自身が創造し文化を創っていく、そういう主体者になれるような方向性を持ってきたというふうなことで、親も違い子も違うのだけれども、兄弟のような関係になって、お互いに学びつつ子どもを育てていく。そういうような関係を持ってきている。

 フレネを個人崇拝しているというのではなく、フレネが考え出したということで、実はフレネ運動というのがありまして、従来の暗記主義の競争に追い立てるような教育ではなくて、フレネに共鳴した人たちがいろんな実践を持ち寄って、こういうふうなことをしたらいいんじゃないか、ああいうふうなことをしたらいいんじゃないかと、自分はこうしたら子どもたちはこんなふうに変わってきたという実践と結果を持ち寄りながら、じゃあ全体としてこうしようかという研究交流の団体があって、イッセム、そこの運営の責任者がバレーさんなんですけれども、単純にフレネ教育と言っていますけれども、実はフランスの良心的な先生達が知恵を出し合って今日のフレネ学校を創り、またフランス国内あるいは世界各国で行われているフレネ教育の原形を少しずつ創りだしまた蓄積してきた、そういうふうな団体に今日に至った。

 そういうふうなところにけやの森も仲間入りをして、大きく世界に広がった先生達との交流関係の中にけやの森もある。まさにインターナシヨナルスクール、子どもは日本の子どもだけれども、教師も実践や運営の仕方、考え方などを学んでいる。
 (日仏交流第二回 けやの森学園・フレネ研究会)から

◆フレネ教育法を考える ミシェル・バレ

 教育者セレスタン・フレネは、もちろん日本の幼児教育制度を知ることはなかった。私自身の日本の幼児教育との出合いは、幼児向けの絵本を通してであった。15年程前、日本人の一人の訪問者が日本の絵本をプレゼントしていった。その絵本は、当時フランスではみられなかった注目すべき作品であった。それ以来何冊もの仏訳が出版された。特に興味をひいたのは、テーマの多用な視線である。ある情景を例にあげると、そこに釣り人、魚、昆虫、カエル、ウサギ、鷹等の映像の世界が、多彩な角度で、表現されていた。同様に、ある少女の物語は、彼女と対するお母さん、赤ちゃん、同級生、先生、お店の店員等、各々の関わり合いの視点から見た彼女が描かれていた。

 小学生向けの出版物になるとカリキュラムの保守性により、幼児教育用のオリジナリティーを失っていると日本人の訪問者は嘆いていた。彼によれば、我々の出版するビブリオテック・ド・トラバイユ(略BT)出版社の出版物には、それが生かされていると賛同してくれた。

 フランスのテレビが日本の幼稚園で取材したリポートでは、よりよい学校に進学できるように6才以下の子どもが、まるで軍事的な兵士訓練に類するような教育を受けているなど、大抵は極端な報道である。その中で特に印象に残ったのは、大人のような忍耐力を鍛えるために、子供をパンツー丁で雪の中を歩かせた場面である。フレネ氏はかつて子供たちを過保護にしないようにという指導を行っていたからである。

 当時、フレネ学校は寄宿舎制度であった。朝の起床後、子供たちはプールにザブンと潜ってから走り、自分のペッドにもぐり込むということを行っていた。これは、ショックフルワ(寒冷ショック)と名付けられていた。(暖かい)プロバンス地方と雪の降る日本の気候の違いもさることながら、特にショックだったのは、それを見守る教師たちが防寒着でぬくぬくとしていたことである。フレネ氏が、プロバンス地方でもまれな雪の中に転がることが子供たちの為になると判断したならぱ、言うまでもなく、共に教師たちもまた生徒と同じ格好で取り組んだであろう。第一の教育理念は、子供たちに良いと主張する時には教師自らが行なうということである。

●子供は、如何なる年齢でも本質は 大人と代わりはない
 だいたい大人達は、子供たちは大人への成長段階にあると見倣しがちである。この段階を早めに終わらせようと急ぐあまり、競争に奔走させる。または、子どもは大人と別格だと区切ってしまう。
 フレネ氏は、人間の成長の時期を区切ることを否定した。人間は、昆虫や貝類と違って、基本的な二ーズは変わらないものである。ただそれらは、年齢と共に異なった形で現れている。弱者へ手を差し伸べるということは、当然だが、世の中の暴カや無知や飢え等の根本的な問題を解決せずして子供たちを守ろうという大人達の発想は、偽善でしかないのである。
 フレネ氏は、こどもを大人と別格に扱うことを否定する故に、総体的な社会的解放のためになくてはならない教育方針を含む全体的な社会権利の主張と、子供たちが持つ教育決定に参加する権利の尊重という二つの理念を重視した。その二つの要素に基づき、子どもの自律と周りの社会とのコミュニケーションを重視した。保護を理由に子供たちを社会から切り離しては、ならない。

●習得の総括性の尊重
 フレネは、概念的価値観だけを育んで、感性と感動を軽んじる保守的な教育制度を批判していた。一方、最近盛んに言われている脳の開発で、最新データを取り入れた感性の訓練へ走る者もいるが、それも一貫した人問性を分けるのはおかしなことである。感性によって知ること、また感動の上での絆は、理論や言葉と同様に概念的な習得と行動には必要不可欠なものである。感性と理論の相互関係からくる調和が大切である。だから集団の内外で、自己表現のあらゆる形態とコミュニケーションが必要なのである。
 ボディービルダーは、調和を保った健康な身体作りより、理想的(?)な肉体美に近付けようと、無理に筋肉を部分的に膨らませる。子どもの中の一部の可能性だけを育てようとする教育は、まるでボディービルディングを思い起こさせる。
 さて、二つの教育概念の違いをあげてみよう。あらゆる学校の勉強に於て、子どもたちはあらかじめ設定された課題の指導要領を忠実に守りながらいっせいに行動することを求められる。殆どの子どもたちは、提供された課題を指示通り完成できるが、何を子供たちは学んだか……? ただ課せられた指示を守ることだけである。完全に無駄とは言えないが、教育の次元では実りが乏しい。
 ところが同じ課題において、子ども一人一人に自らの企画を、ぼんやりながらもイメージさせ、様々な材料の中にふさわしい物を選択させる。さらに選んだ材料や制作過程で新たな発想をくわえて企画を調整させ、補わせ、創作活動に入らせる。すると制作途中に手助けの必要性が出てきたり、完成が遅れることもありうるが、多彩な完成作品の前での子ども同士のディスカッションは、一人一人の子どもに新しい創作とさらなる探求へと発展させる。子供たちは、その過程で何を学び取ったであろうか? 創造すること、素材との戦い、友達とのやりとりや分かち合いは、ただ真似る事ではなく、むしろ自らのプランをより充実させるものである。すぐに成果が上がらなくても、この教育方法の豊かさは一目瞭然である。先生は、子どものプランに関わる諸問題を代わりに解決しなくても、ハードルに阻まれる子どもを一人も残さず導くのが役割である。

●人間性の成長は生きたプロセスで あり、その萌芽は各自の奥に潜む
 人間性の成長は先天的なものと言うことではない。人間性の成長は、社会環境に深く根を張るものであリ、その環境から引き離しては発展は成されないものである。子どもが学ぶべきことを不自然に接ぎ木し、その子の持つ芽を軽んじる教育者が多すぎる。この状況の中で拒絶反応と失敗が起こりうるのは当然ではないだろうか?
 フレネは、自由表現のあらゆる形態を重視していたのは、社会環境(友達)とのコミュニケーションの中でこそ素質を伸ぱしたり、広げることができると考えたからである。無駄な干渉よりも教育環境に変化を起し、調整したほうが、より子供たちの自由な発達を最大限に伸ばすことができるからだ。

●模倣と従順よりイニシアティブと 責任のある率先参加
 多くの教育者は、素直に集団に従うように子どもを躾けることが自分の主な役割だと信じている。しかしこれが精神鍛錬を意味するならぱ、人類の理想像は羊の群れにあるだろう。ただし忘れてはならないのは、群れの中にコントロールのできない動きもあリ、破局へと展開することもあろう。
 自発的イニシアティプという教育法を取り入れると、子どもは、他の子どもたちにただ従うというより各自が機転を利かせたり、自主的に率先参加するようになる。この教育法では、クラス内の刺激を受けて、消極的な子どもは仲間外れにならずに自分で選択する責任が常にある。やがて消極的な子どもは、はにかみながらもイニシアティブをとり始める。気ままで信念のない子どもは、そのプロジェクトをやりぬくための意思を自分の中に自ら見つけるようになる。各自が自由に選んだ活動の中にその個性のすべてを表現できるようになることに気がつく。
 精神鍛練の観点からも現実に勝る教育素材はない。だだをこねて大人を自分の思うままに動かしていた或る子どもは、小さい舟をつくりたかった。材料と道具の扱い方について、他人の意見に耳を貸さない彼は、なかなか思うようにならない材料に悲鳴をあげたり、癇癪を起こしていた。材料や道具には人間に及ばぬ忍耐力と持久力がはるかにある。そこでその子は、材料や道具を思うままに使いこなすためには、それらの法則に従っていかなけれぱならないことを体得した。大人の法則に妥協するのではなく、現状に従う事で目的の成果を上げられるのだ。

●溢れるバーチャルリアリティーに 対応するには、現実の中にしっか りと根を下ろすしかない
 バーチャルリアリティーは、我々の環境を侵略するあまり現実と虚実の境を不確かなものとする。故フレネ氏は、我々に新しい可能性をもたらす最先端技術を否定はしないであろう。数学、力学、地理学、考古学などあらゆる分野で応用されているバーチャルリアリティーの進展が予測される。ともかくも最先端技術の導入の際に、さらなる可能性を発展させるには、まず知識を確実に習得せねぱならない。
 子どもは、現実世界の豊富な体験の中でこそ、バーチャルリアリティーを健全に受け入れられるものである。幼いころから13歳までを豊かな自然に包まれた村で過ごしたフレネ氏が、電子的な箱を住処にしたバーチャル動物が起こした熱狂を目の前にしたら唖然としたであろう。これはまさに生きた動物との絆の根源を歪めている。やがてこの先は、バーチャル的夫婦が電子的存在の子どもを育てるようになるだろう。すると現実から離れたような狂った人生の極致に至るのではないか。
 難しい環境であるかもしれないが、種の発芽、卵の成長など、動植物の成長過程を子どもたちに実体験させることはなによりも大切である。生物は、所有物でも単なるおもちゃでもない。

●社会化は、早過ぎる事はない
 先ず社会化の意味について説明する。社会化とは、集団におとなしく従っていくことに個人を馴らすことではない。それでは、教育よりむしろ訓練のたぐいに入る。ただ従うだけでは、何も集団にもたらさない。子どもを社会化させるとは、集団の営みに参加するうえで、自ら何を集団にもたらせるかについて認識させることである。一人一人の個性を育てるとは、他人を犠牲に個人主義を丸出しにさせることではなく、集団的なビジョンまでに発展させることをいう。クラス運営に関係する共同的決議の過程に子供を参加させることは早いほどよい。
 各々のイニシアティブを最も生かす条件が満たされなくとも、個人的にも集団的なレベルでも選択の余地を図れるように配慮することが大切である。選択思考の教育の重要性は、一般には軽んじられている。選択するということは、個人の自由を表現するということだけではない。忘れがちなことは、選択のうえで選ばなかった物に対する一時的な諦めが生じるフラストレ−ションを受け入れるということでもある。後者の方は、精神向上にきわめて建設的である。
 かつて家内が運営していた保育園の給食では、デザートの選択制度を導入していた。例えぱ日替わりでケーキが出た日には、いくつかのケーキの間で選択をし、果物が出た日には、その中で選択をする。全部もらいたい子どももいたが、その時、顔に出た心の中の葛藤は見る価値があった。熟慮したうえで、一時的に欲望を絶ちながら選択する。こういう教育は、みな平等に決められたケーキや果物を配る制度のなかには不可能である。学校生活を通して、いくつかの活動に於て、集団でも個人でも選択の必要性に度々出会うことが大切である。
 イニシアティプや自己表現、協カ上のやり取りなどに基づいた教育は、自分を流れに任せる者より、自己責任と連帯責任を負う人間を養うであろう。この選択は、21世紀の社会に向かう我々の決定的な選択であろう。

(※ミシェル・バレ略歴:フレネ教育研究団体(ICEM)の委員長を十五年間勤める(一九六七7〜一九八二)。フレネ教育で用いられている「勉強文庫」シリーズの編集責任者。国立教育博物館フレネ教育料室長を歴任。伝記『今日に生きるフレネ』の著者。)
※この文章は、J・&Y・ベッソン氏の翻訳をもとに、一部変えさせていただきました。

◆けやの森学園の実践報告から

◎香川幸太郎くんの発表から

 「ぼくは7月26日から7月31日までの5日間、入間川・荒川のカヌーツアーの調査隊員として参加しました。入間川の上流にあたる名栗川の源流から下流の荒川が東京湾に流れ込むまで調査ポイントを決めて、どんな生物がいるかを調べました。源流は水が冷たくて周りは杉の木ばかりで、川がすごく細かったです。いた虫はみんな小さかったけど、種類はけっこういました。」
 幸太郎くんは、へび、しろかげろう、えび、タイコウチ、アオイトトンボ、つめげんごろう、なまず、ざりがに、アメンボウ、ボラ、など川の上流・中流・下流・河口にかけての水質の変化、生息する生物の変化やその生態の観察、水草の生息域の変化、タイコウチの飼育による生態観察記録など、実際に「カヌーツアー」で川下りをした体験やタイコウチを実際に飼って観察をするという具体的な学びを通しての発表を行った。それは単に図鑑を調べて学習したのとは明らかに違う、経験と実感に裏打ちされた理解によるものであった。
 幸太郎くんが生き物に興味をもったのは3歳くらいから。水棲昆虫に興味を持つようになったのは、実際に川下りをしてからだという。一つの体験や関心が、さらにもっと広がりと深さを持った自然や生物への探求心を呼び覚まし、深く掘り下げていくこととなった。さらにその活動は周りの調査隊の仲間にも影響を及ぼし、それぞれがお互いの興味を広げていき、みんなで共有するものになっていったという。

◎けやの関わりを通して育つもの

けやの森学園・鶴みちこさん
 けやの森学園の縦割り保育の中にペアというシステムがある。年長児、年中児、年少児、などが2〜3人のペアになっていろいろな活動や生活を共にする。クラスという漠然とした集団ではなく、ペア同士という小さな関わりを持つことで新入児などは安心感を覚え、徐々に自己表現を出来るようになっていく。また、進級児はペアが一日でも早く幼稚園が楽しくなるようにと思いながら、手をつないだり、給食の仕方などを伝えていく。子どもたちは互いに成長し合いながら生活していく中、互いに意見を交換しクラスを作っていく。

 けやの森に勤めた当時は、ペアさんが可哀想と思って口を出してしまうことが多かった。しかし、言ってしまうと子どもが心から動いていないと思った。もっと子どもを信じて関わってみようと思った。
 実際にどんなことをペアさんはするか、具体例をあげて説明した。

 新入児が安心感を持ち、生活の流れを知って、次第に自立していく様子がうかがわれる。別の角度から見ると、成長しているのは新入児よりはむしろ進級児の方である。そこには、ペアという関わりを通して、率先行動、自立、豊かな人間関係というものが見えてくる。今の時代、受け身の生活をすることが当たり前になっている子どもたちが、自分から率先して行動する姿がペアを通して見られる。また、その時々の関わりが、日々の生活を通して活かされる。ただ、場合によっては、すごく甘えさせ過ぎてしまうとか、悪い習慣を伝えてしまうとか、相性の問題だとかがあり、担任がよく考慮しながら組むことも大事になってくる。

 こういうペアというシステムがあるけやの森の中で、担任の役割はどうなるか。それは教師自身が何とかしてあげなくてはと思うことではなく、いかに子ども同士の自然の関わりに気付いて、多くの子どもたちに伝えられるかにあるという。子どもは生まれながらに成長したい、大きくなりたいという気持ちと同時に人をいたわる気持ちを持っている。それがペアという関わりの中では発揮しやすい。だから、いかにその関わりに気付いて、すぐに手を出すのではなくて一歩さがったところから見つめて、周りの子どもたちに言葉で伝えてあげられるかが教師の重要な役割となる。

 また、すべての子に完璧を求めるのではなく、それぞれの得意なものでの活躍を認めて集団に返すことによって、自分自身も成長するし、それを聞いた集団もそれから学び成長することにつながっていく。
 もし、相性がそれほどいいというペアではなかったとしても、ペさんというのは他にいろんな友たちがいる中でのペアということなので、すっと手を差し伸べる周りのお友だちが必ずいる。集団の関わりを信じる気持ちを持ち、お互いの信頼関係がうまくいかなかったとしても、すべてマイナスの面で見るのではなく、周りの子よりも時間はかかってしまうかもしれないけれども、その中で自分で行動を起こせるようになるということもある。

◎生活の中から生まれる子どもの表現

けやも森学園 佐藤由香里さん
 けやの森では、子どもと大人、子ども同士、動植物、昆虫など、すべてが自然と関わり合いながら生活することを目指している。人を含む生き物と多様に関わる生活の中で、子どもたちが頭、心、そして自らの手足を存分に使って、生きるための技術、知恵、そして相手に対する思いやりの心を身に付けていく。
 けやの森の入り口に、野生の鳥の産毛も生えそろっていない雛が落ちていたのを年中児が発見した。その世話を巡って、そこに子どもたちの小鳥の命との真剣な関わりが生まれた。ほとんどの子が飼いたい、世話をしたいという意見が出た後、「先生はどう思うの?」と年長の子どもが聞いた。その時、佐藤先生はいつも正しい最終的な答えを求められる先生という存在を意識することとなった。雛は死んでしまいお墓を作って埋葬したが、その時休んでいた子は、登園するとき鳥の家を作って持ってきた。この貴重な体験は、子どもたちの絵や造形、日記などの言葉となって表現されることとなった。
「子どもの本心と向き合い、子どもの心の動きを受け止めること、そして、その心を自由に表現する場、機会を保障することが一番重要な教師の役割だ」と気付かされたという。「子どもの心からの表現」は「引きだそうとして引き出せるものではない」。そして、「子どもが心を動かしているときに、面倒臭がらずにつき合うこと」「子どもが頭を働かせているのを、じっと見守ること」「助けを求められたときに嘘や体裁ではなく本気で対すること」、そういう保育者のあり方が、「子どもの素直な表現を生むことにつながる」と。
 そして、自らに問う、「この子は本当に心から話しているのか」「自分の意志で行動しているか」。「互いにそのつもりでいても、実は私の敷いたレールの上に乗って、それで満足してしまってはいないだろうか」。「大切な決断はどこか私に頼られて」いなかったか。「もっと自由な発想、表現方法が眠っているのに、失敗しないですむ大人のやり方に気を取られている子」がいやしなかったかと。

 そのような保育が、ここ、フレネ教育法の学びを取り入れたけやの森学園ではごく自然に行われているようだ。

◆フレネ学校とけやの森学園 古沢常難(法政大学教授)

周知のように、けやの森学園では、子どもの自由を重んじ、自由な発想・興味関心を大切にし、可能な限り自然とふれあう機会を作り、自然の中で、子どもの多様で豊かな経験を育て、自立を促す教育(保育)を進めています。子どもは、自然と触れ合うなかで、その豊かな感性が磨かれ、一層豊かに逞しく育っていきます。

 フランスの自由学校と言われるフレネ学校は、南フランスの自然環境豊かな丘の中腹に1935年に創設されました。当時としては先進的にプールを備えていました。現在のフレネ学校は、幼稚園・小学校低学年・小学校高学年の3学級・3人の女教師と60人の子どもが生活する、とても小さな学校です(1994年からはフランス唯一の国立学校となった)。子どもの自由・自発性を大切にした、いや、むしろ、子どもの興味・関心から出発して、子ども自らが計画を立てて学んでいく学校です。

 フレネは、教師の権威の象徴である教壇、生徒を見下す教壇を教室から無くし、子どもと同じ目線に立ちました。おとなとは違う子ども独自の感じ方・考え方にそって教育を進めようとしたのです。彼は、子どもの自由な表現を大切にし、子どもが感じたこと・考えたこと・経験したことを綴った作文(白由作文)を子ども自身の手で印刺しました(学校印刷)。これを遠くの学校と交換し、送られてきた、よその学校の子どもの生活や自然環境を学びました(学校間通信)ときには、互いに訪問する交換=交歓旅行も行いました。こうした活動は社会科や理科の学習を豊かなものにしました。子どもが興味を持ったことを子ども自身で研究し、みんなの前で発表しました(白由研究)。学校で学ぶだけでなく、地域の生活・自然を学びに、よく校外に出かけました(散歩学校)。椅子に座って頭だけで学習するのではなく、体と手を使って創造活動を行いました(活動学校・労作学校)。先生が全員に一斉に教えるのではなく、生徒1人ひとりが自分の能力・興味に従い自分で学習の計画を作って学習を進めました(個別学習)。学校生活の規律は教師が決めるのではなく、子どもたち自身で会議を持って話し合いで決めました(学校協同組合)

 けやの森学園の教育(保育)は、フレネ教育そのものではありませんが、子どもの自由を重んじ、自然に触れ、多様な創造的活動を行い、自然の中で子どもを育てるという教育の精神・理念において、多くの共通点を持っています。その意味で、遠く東西に離れていますが、けやの森学園とフレネ学校は兄弟・姉妹のような関係にあると言えるのではないでしょうか。

 昨年は、フレネ学校の現職の魅カ的な3人の女の先生が、けやの森学園を訪れ、けやの森学園の子どもたちの生き生きとした姿・保育の様子を見学すると共に、ミレーユ先生(幼稚園部を担当)から「フレネ教育における子どもの見方」についてのお話を伺いました。

 このたび、けやの森学園に、生前のフレネと共にフレネ学校で教師として働いた、ミシェル・バレ(Michel Barre)さんが訪れます。バレさんは、ノルマンデイー地方に1928年に生まれ、師範学校卒業後、教師となりました。フランスのフレネ教育法研究団体の責任者の重責を果たし(1967年〜1982年)、その間子どもたちが教科書に縛られないで自主的に学習や調査・研究を進めるために利用する「学習文庫」シリーズの編集にも携わりました。その後、あのジャンヌ・ダルクの終焉の地として知られる、ルーアンにある国立教育博物館のフレネ教育資料室長を勤め、!987年6月から一年間開かれた「フレネ展」を成功させました。バレさんには、フレネやフレネ教育法についての多くの著書・論文があります。最近は、『今日に生きる教師・フレネ』と題する2冊からなるフレネの伝記を出版しています。

 長身のバレさんは、間もなく古希を迎えますが、背筋が真っ直ぐに伸びた、本物の素敵なフランス紳上です。今回、バレさんは、奥様ミシュリーヌ(Micheline)さんとご一緒に来日しています。奥様は現役時代、公立幼稚園の園長を長年勤めました。けやの森の子どもたちに会えるのを楽しみにしているとのことです。



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