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若者たちの「新しい神様」


アイデンティティーを求めてさまよう若者達
        さいたま・子どもフォーラム、プレ企画より

■右翼民族派バンドの少女

 学校時代ひどいいじめに遭って不登校となり、苦しみのあまり自分の腕を切るなどの自傷行為を繰り返していた少女がいた。その少女が右翼の思想に自分の生きる拠り所を見出し、右翼民族派パンクバンド「維新赤誠塾」のボーカルをつとめ、異色の右翼少女として行動し始める。雨宮処凛(25)。その人がこのドキュメンタリー映画『新しい神様』主人公である。

 不登校になった後、彼女は自分が何者なのか分からなかった。この社会とどう繋がっていけばいいのか分からなかった。自分には何もない、何も出来ない、そんな自分が大嫌いだと思っていた。何か自分のアイデンティティーを確証してくれるものが欲しかった。しかし、それはどこにあるのか分からなかった。

 ある時、少女は右翼民族主義団体の集会に出会う。そこにはこの戦後の「民主主義社会」を痛烈に批判し、天皇主義を熱っぽく語る若者たちがいた。彼女はその熱い行動に衝撃を受ける。そこには、今の若者たちが失ってしまった何かがあると思った。そして、そこに自分を生かす道があると思った。彼女はすぐにその団体と行動を共にし、考え方も行動も右翼少女に変身していく。そして、時には街頭に立ち、マイクを持ち、道行く人々に向かって激しい口調で訴え,行動する右翼少女へとなっていく。彼女はそこで初めて生の充実を味わう。少なくとも、そこには「あっ、自分は生きているんだ」という充実の瞬間があった。

 やがて、彼女は極左の元連合赤軍のメンバーたちとも交流を持ち、単身北朝鮮にわたり逃亡生活を送っているメンバーと語り合ったりもする。また、天皇制を信奉する右翼のバンド青年と同居生活も行う。そして、天皇賛美の右翼民族主義を掲げながらバンドの演奏活動を展開する。そのことで店から閉め出されてもめげることはない。

 ボーカルをつとめる彼女の口からは、平和をむさぼる日本の大衆や社会に対して、次のような激しい批判の言葉が次々と吐き出された。
B「このうだるような平和の日本」
B「歴史や社会から分断され…」
B「汚物の掃き溜めのような戦後民主主義」
B「家畜のように太っているこの醜い世の中」

 しかし、彼女は盲目的に右翼思想にのめり込んでいるわけでもない。彼女はこのようにも語っている。
B「民族主義に惹かれる。いつも見えない敵を作って、怒って、政治運動をやっていないと…」
B「絶対的なものにすがりたい…」
B「幻の美しい国体ということを考えて、それにすがって生きている自分
 そして、天皇を賛美し民族主義をかかげて行動する人たちのある種の堕落の姿も見逃してはいない。そこに彼女を十全に満たしてくれるものを見出したわけではなかった。しかし、自分への苛立ち、この平和のつかみ所のない社会への苛立ちが、右翼民族主義の言葉を借りて、激しく噴出するのだ。

■展望のない日本社会

 最近、日本の社会のタガが外れたような少年たちの事件が相次いだ。そして一方では、国旗・国歌法案、盗聴法案をはじめ旧来の国家の枠を強化するような法案が矢継ぎ早に成立し、為政者の口からは「天皇を中心とする神の国」や「国体を守る」「教育基本法を見直す」などという発言をはじめ、戦前の価値観や皇国思想に対する強い郷愁を臭わせるような言説が次々と出てくる。単なる失言なのか、それとも、意図的な発言なのか。

 そういうことを含め、日本の社会がどこかおかしくなってきているのではないかという漠然とした危機意識の高まりの中で、大人たちも二十一世紀を切り開く展望を持てないでいる。それが未来を生きようとする子どもや若者たちに深い影を落としているのは事実であろう。

■自己の拠り所をどこに求めるか

 人は自己のアイデンティティーをどこに求めるのだろうか。生きる目的も方向も見出せず、浮き草のように漂流する子どもや若者たちは、どこに生きる精神的な拠り所を見出すのだろうか。

 友だちとの関係も希薄であり、家族との深い理解が成立していることも少ない。また、学校はもはや自分たちの生きるエネルギーを養うどころかスポイルする作用をしている場合が多い。そのように友だちも家庭も学校ももはや自分の拠り所とならなくなった時、彼らは依拠するところが意外なほど少ないことに気づく。彼らの多くは現実感に乏しく、今まで学校で身に付けてきた知識はほとんど何の助けにもならない。学校というところは、一人ひとりの生徒の自立を促すどころか、逆にそれらの個性を撓め、学校やクラスという集団に個々の生徒を順応させ依存させるように機能してきた面が強いのだ。

 そのような育ちをしてきた子どもや若者たちにとって、自己のアイデンティティーの危機に見舞われた時、日常的な営みの具体的な関わりの中に自己を見出すことはとても難しい。だから、その場合、子どもや若者たちがより確かな拠り所として、「民族」や「国家」という架空の物語に一気に飛躍して自己をリンクさせてしまうことはそれほど突飛なことではないし、それが神性を帯びた物語としての皇国や日本民族というものに脚色される時、それがより確かな拠り所として感じられるということも、そう意外なことではないのかもしれない。
 また、たとえそれが擬制の物語性であると気づいたとしても、彼らが自己の存在の空虚さを満たしてくれるものとして実感する限り、容易にそこから脱却することはできない。彼らは自己が依拠できる神話を本能的に求めているとも言えるからである。もとより、彼らはその思想性が正しいか正しくないか、そんなことを問題にしているのではないのだ。

 このような若者の指向は、実は今に始まったことではないが、状況いかんによってはいかようにも方向づけられる極めて危険な要素をもっているのは確かだ。一人ひとりが自己の生きている具体的な現実から思考することを放棄して、大状況に盲目的に身を任せることで安心立命を得ようとするあり方にも通じる。そして、もし社会がその機能に破綻を来した場合、人は容易に狂信的ファシズムへの傾斜を強めていくと考えられなくもないのだ。

 会場の学生から「シンボルの天皇に魅力を感じるのは分かる気がする」という発言があったが、それはそのような心的傾向が単に一部の突飛な若者たちのあり方にとどまらないことを示唆しているとも言える
 いわば温室の中のような平和という状況にぬくぬくと漬かっているかに見える日本という社会は、真綿で首を絞められるような極めて生きづらい世の中になっているという感覚は、若者たちの間にかなり広く感じ取られていることではないだろうか。

■守るべきものは何か

 我々は、このような状況の中で、どう行動すればいいのか。その手掛かりの一つは、主人公・雨宮さんの辿った軌にその答えがあるように思われる。

 このドキュメンタリーの監督・土屋さんはある時は彼女に密着し、ある時は彼女にビデオカメラを渡し、その日常を取り続けたが、このドキュメンタリーの進行の過程で雨宮さん自身が微妙に変化していく様が読みとれる。
 それは彼女と監督との間に、主人公と監督という建前の関係を超えて、互いの交わりの中で違いは違いと認め合いながら、そこに個と個との深いつながりと共感とも言うべき親密な関係が生まれたからである。その関係を通して、彼女は非日常的観念的な次元からいわば日常の生活の次元に近付いてくるのである。こうして、彼女はこのドキュメンタリーの撮影を通して、そのドキュメンタリーの中の自分と別れを告げる方向へ自らをいざなったのである。

 それと、もう一つの手掛かりは、「生きづらさから飛躍するのではなく、人と人との関係の中で自分を見つめることが大切ではないか」と言った会場の学生の言葉である。
 子どもや若者たちは、学校教育を中心とする生活の中で、極めて狭い視野の現実を生きている。皮肉なことに、日本の学校教育では教育期間が長ければ長いほど日常的な次元での現実感覚を失い、純粋培養された知識の肥大化、観念的思考の肥大化をもたらすようになっている。そのような若者たちにとって、希薄化された現実を生きる自己を救済する手段として、国家とか民族、あるいは抽象的な社会や政治状況というものしか目には映じないのは必然でもあるとも言える。
 その場合、そのような幻の国家というようなものに飛躍する思考を転換するには、その個人の周りにいかに実感のある具体的な人と人との関係を築くことができるかということであろう。自己のアイデンティティーを幻想の国家の中にではなく、日々を生きている具体的な日常的な営みに見出すことが出来るかにかかっているとも言える。
 しかし、そのためには個々人の日々の営みが生きがいのあるものとなっているか、何よりも愛し守るべきものとなっているかどうか、その質が問われているとも言える。

 この日常性の価値の破綻、その裂け目からファシズムのような非人間的な毒キノコは生えてくる。それを防ぐのは、声高な批判では決してないだろう。一人ひとりが意味ある現実としての日常を生きているかどうかなのではないか。いざとなれば、アメリカのように、家族を守るためには国家とも対決するというような市民の感覚があるかどうかなのではないだろうか。


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